海からのメッセージ 熱海湊(阿田美湊)

  スキューバイン熱海 海からのメッセージ熱海湊 熱海の古絵図 熱海海中遺跡写真集 あつうみヶ崎古絵図 ダイブコンピュータ検証 掲示板  熱海の海底遺跡2 あつうみヶ崎回収遺物  「熱海の海底遺跡」掲示板  海底遺跡所見報告書一部 遺跡関係リンク集 伊豆山海底遺跡と走湯山   熱海の海底遺跡1 熱海の海底遺跡保存会 New あつうみヶ崎検証

熱海の海底遺跡詳細海底図(東海大学海洋学部海洋資源学科根元教授提供)

※注意 1.ここに掲載される写真は事実に基づいたものですが、記述及び時代考証に関して現在調査中です。 
        この件に関して知っている方が御座いましたらお知らせ下さい。
           ◎2.
2002.5.2に新たな場所で海中遺跡(桟橋、石段、祠跡)を見つけました。(熱海名由来の形跡か?)
       内容等の書き換えが都度有ります事をお詫び申し上げます。
     
◎3.2002.9.9に佐賀県立名護屋城博物館の宮武 正登氏が個人的に来熱し調査致しました。
        遺跡としての確証と新たに和船の「碇石」を発見致しました。
          
◎4.2003.1.19 宮武 正登氏と共に伊豆山にて潜水調査、新しいタイプの小型碇石を発見。
          
 どんどん発見されています。熱海の海底遺跡保存会のホームページをご覧下さい。


  相模湾から熱海湾を見る
                                                              カシミール3Dによる図


はじめに
 
この地区で潜り始めて早いもので30年(昭和47年から)以上になろうとしている。 何気なく潜っていたのだが、ふと海底の地形が不自然な事に気が付き始めた。

ソーダイ根の水深25〜27mに昔の潮間帯を見つけた事からさらに疑問が始まる。 四角や長方形の石、加工された地形等に目が移るようになっていく。

そして、 ソーダイ根の周囲の加工跡や砂に埋もれた回廊を発見したのだ!

しかし、錦ヶ浦は浜信仰や太陽光信仰及び龍神信仰の対象となる場所で、有って当たり前の場所。

更に 捜索範囲を拡大するが、自然な物か加工された物かで苦慮するが、下記の事で確信を得た。

偶然にも砂利運搬船が熱海にて沈没し、漁礁として残す事となった事がきっかけとなり、潜水する範囲が拡大した事で偶然に発見した。(事がチョッと多いね(^^))

今までに見てきたものが知恵の輪をはずす様に、そしてジグソーパズルの絵が立体絵として浮か び上がってきた。

歴史考証 (熱海の海底遺跡の時代考証をする為の謎掛けです。)

平安、鎌倉、室町、安土桃山時代?まであったと思われる熱海湊(港)が忽然と消えた!?

熱海・伊豆山の記録はかなり古い時代から残っており、海上交通路・伊豆路及び東海路の連絡 路として重要な交通路で有ったに違いない。

しかし、鎌倉時代後期?から江戸時代前期頃の熱海の記録が無くなっている不思議さに気が付いた。

ただし、この記録が無いのは豊臣秀吉の小田原城攻めの時に走湯山(伊豆山権現)を焼き討ち にした。 この頃、走湯山(現伊豆山神社と般若院)は北条一門の力が強かった為、記録を焼失した 可能性あり。

古い時代の港とは、その地域の商業発展やその地域を統治する有力者においては重要な場所 でもあり、軍事港としての機能も併せ持つ。

走湯山(そうとうさん、又は「はしりゆ」)はしりゆ(和読み)と呼ぶのは鎌倉〜室町時代まで言われており、そうとうさんは漢字読みで江戸時代辺りか・・・?

◎走湯山については阿部 美香(旧姓 鴨志田)女史の「走湯山縁起の表現と世界像」に詳しく書かれています。

忽然と消えると言う事は余程の事が無い限り、大地震で消えてしまったと想像しうる。 つまり、海岸線の大半(港の全域)が海中に没したと考えられる。

崩落と自然沈下と言う言葉で表すと、熱海の港は崩落による沈下であり、その規模は考えられな い程のものであり、数メートルから27〜28メートル(最大35m以上60m)におよび、その海底では大 桟橋、小桟橋、石畳(桟橋)、護岸石垣、岩盤を削った回廊等が今までに発見され、2002.6.15には 集落の跡地と思われる場所に壅壁石垣を見つけ、何となく当時の生活の匂いを感じる事が出来た。

これ程までの地震と崩落及び大被害なのに記録が殆ど無い?

勝手な想像だが、この地震は局地的に発生した地震でもあり、統治していた有力者がその記録を 伏せたとしか考えが付かない。

491年に再び噴火、749年に噴火とある。(この場所は現在の大乗寺根ではないだろうか?)
   火山とされる場所は海底に2ヶ所あるのだが、どちらが噴火したかは分からない。
 
以前には「あつうみヶ崎」と呼んでいたかは不明であり、大乗寺根とは釣りの時の山たて名称。

1182年(寿永元年)1月頼朝、走湯山五堂の灯油料と、船50艘を寄進する。(伊豆山神社文書)
             これだけの船の寄進は港の有った証か? (北条・走湯・熊野水軍?)

1247年(宝治1年)に伊豆の國で土地が大陥没の風説(百錬抄)が流れるが確かな記録なし。

新たなる発見ビデオでも紹介しています。

つい先日の2002年5月2日に海底の根(水深36〜42m)に新たなる遺跡を発見!

桟橋跡、石段、祠跡、お湯の湧き出し口(又は火口)等であるが、唯一と言っても良い石の建物らしき祠が壊れて残っている。(最近になって分かった事だが祠または八角形の灯篭かモニュメントらしい?)

20m長の桟橋にも先端部分に独特な特徴が有りますが今後の調査に期待が持てます。 しかし、その場所までの移動距離と水深の深さに調査は難航中。 5/27日現在では万巻上人ゆかりの「あつうみヶ崎」として調査中。

◎9/9日に湊としての証拠品を発見! しかし、年代がかなり広範囲に及ぶ様だ。(検証中)

◎2003年12月29日かがり火灯台の石積みを確認。この発見は何を意味するのだろう。
  周辺の階段、基底部が浪打ち際を表している様で有る。
仮説3へ

近年になり、この大陥没は石本 巳四雄博士の関東大地震による相模湾海底の局所的大陥没とも合致するようだが!! (この発表は石田 昭 博士のライブラリーで)
アクティブプランナー・ダイブメモリーズ検証グラフ

仮説(新たな発見と共に仮説の内容も変わります。)

1.1247年の伊豆の國での大陥没の風説は軍事的策略か宗教上の陰謀か?
この時代の鎌倉幕府将軍は藤原 頼嗣 執権 北条 時頼 連署 北条 重時であった。
この年代の11月26日に鎌倉大地震があった。(この時に大陥没があったのだろうか?)
大陥没は事実だったが、事の重大さで時の幕府は記録を伏せた?
北条水軍の隠れ基地だったのでは?(3方を山に囲まれ、神社や仏閣が関所の役目をしていた)
熊野水軍(熊野衆、伊勢熊野衆)との結び付きが浮上(操船と海女による海産物の採取)
走湯山の僧兵3500人を賄う為、広く交易を行っていた。(1000石船クラスの湊跡)

2.その後の時代に縁起をかつぐ大名である徳川 家康ではなかっただろうか?(勝手な想像です)
地震の有ったとする年代が慶長元年(1596年)頃とすると、江戸城普請の最中で有った為に忌み嫌って記録をもみ消したのではないだろうか?         (大陥没の事実だけをもみ消した?)

3.委奴国志にその謎が・・・。(推理本による推定?)
縄文後期〜弥生時代に九州西側の天草・五島列島を含む多島圏国家の委奴国が有った。
この国家の王は印恵(伊恵、伊恵)と言い、伊族の長とされる多民族海洋民の首長で有る。
カンボジア系砂鉄精錬製鉄加工集団クイ族、印恵の伊族は航海と造船部族、此れに南人ポリネシア系隼人、クメール系クマ族、ワニ族他の多民族によって委奴国が形成されて行きました。

この時代は未だに銅剣や銅の矛の時代で有り、小国家による繁栄期でした。
伊族の率いる船団は東南アジア、日本海、太平洋を自在に航海をし、交易の民として貝の首飾りや鉄剣等も売っていましたが、代価は大変に高かった様です。弥生時代前中期に日本各地に散らばる黒曜石や貝の首飾り、鉄刀子、鉄剣、鉄鏃、鉄矛は伊族委奴国のもたらした文化です。

ここで再度考え直さなければいけないのは、縄文後期・弥生時代に大船(30〜50m)の存在が有り、日本近海を縦横に走っていた事です。

委奴国が山登(山戸)平定に先駆けて伊豆、相武の地へ先発の集団を発したと有ります。
その時期は板状鉄斧の出土からして弥生中期の西暦六十年〜七十年頃、期末の西暦六十年〜七十年頃、伊恵大王時代であると特定できる。

 古事記に次の歌がある。

 佐泥佐斯 佐賀牟の小野に 燃ゆる火の火中に立ちて 問し君はも

◎一息
この発見が国文学や日本の歴史上において、走湯山の権力の構図と、宗教世界がかいま見えて来た。歴史考証や仮説において述べて来た大陥没では、鎌倉時代の執権 北条 時頼の時代に固まってきていて、三浦氏の滅亡にも深く関わりが有る様である。

つまり、大崩落の年代が1247〜1253年頃ではと推測される。(:確定はいまだされていない)

この事は熊野、熱田、鹿島、他の海に近い所に宮社を持った寺社の記録によって証明されていくのだろう。と言う事は、それ以前の奈良、平安、鎌倉前期にこの地域の発展は目を見張るものがあったと想像しうる。この時代に港を利用した交易の発展は物資の流動だけでは無く、人間の交流の場、つまり情報や技術の伝達及び人々の移動の場所ともなりえ、言い換えれば多くの利益をうる場所となる。

熱海の地名の由来にも重大な秘密が有るのではないだろうか?

平安時代に作られた日本での漢和辞典で有る和名抄に熱海が出て来るが、何故か直見郷と称される。

しかし、平安の時代には直と言う字をあたいと読んでいる。直見ではあたみとはどうしても読めない不思議さがある。◎直見(あたみ)は当て字と分かる。

熊野地方の語言が入り込み、阿陀となり阿多→阿多見→阿多美へと変化したのでは無いだろうか? 2003年10月になって、面白い語源を九州その他の地方から見出した。

前述していた阿陀はかなりの語源の変化が有る事に気が付き調べて見ると、阿陀、阿田、阿多、吾田、吾多と色々な変化をしている。阿陀系の文字は九州の隼人族や安曇族、久米族、穂積、伊津族他に由来している様だ。(伊津とは壱岐と対馬の混成語)

現在の熱海への語源変化は、暫く後の江戸時代である。    全国の阿田/吾田/阿多

現在の熱海の地名

平安時代の中期、平聖範が阿多美の地はカタビラの里、今の今宮神社周辺に移り住み、阿多美四郎(禅師)と名乗った。その孫時方が熱海の和田に移り住んで和田四郎太夫といった。聖範の曾孫・時家は和田より北条に移り住んで北条を名乗った。 北条時政は阿多美四郎より四代目に当たる。

◎後日、分かった事だが和田に於いて朝鮮渡来貴・王族の吉士族が和田に居た様で、今宮神社もこの吉士族によってもたらされた事が分かる。阿多美湊の屯倉管理、船管理として居た様だが、伊豆山は岸谷(喜志)に居を構えて走湯山と密接に繋がっていた。

さて、現在の熱海の由来は江戸時代の湯治場の発展に伴い使ったと思われる節が有る。また、伊東祐親の一族が福島は磐梯地方を統治して安積氏を名乗り、この後に熱海氏と名乗る。この様な所からも熱海の地名が付いた可能性がある。海が熱いから熱海の方が単純で面白いが・・・・・。

平聖範という人物

桓武天皇の皇子葛原親王から五代の孫、平貞盛以来、平清盛等の出た伊勢平氏の系統と分かれ、坂東平氏の一流として、東国に住み着いた。貞盛の子維将が常陸介として東下し、其の子維時、孫直方と二代相次いで上総介に任ぜられた。更に其の子聖範は鎌倉から伊豆の阿多美(熱海)郷へ移住し阿多美四郎、阿多美禅師と称した。この阿多美には走湯権現(伊豆山神社)があり真言・天台2大宗派と浄土宗、浄土真宗の神仏混淆の宗教拠点になっていた

阿多美が直見と語源が変化するには政治的な背景も伺えるのだが!? 政治的背景とすると次ぎの様な事が問題として浮かび上がる。 「イ」とは
「伊弉(イザナギ)」=倭国・九州筑紫王朝・物部系と「伊邪那美(イザナミ・波)」=イ妥国(だいこく)・九州豊国王朝・蘇我系の関係が浮上して来る。

西暦639年に国【『隋書』ではイ妥国(だいこく)】と倭国が合併建国して「倭国」に。都は四国松山。

645年の「乙巳の変」「大化改新」は【イ妥国(だいこく)化への改新と考えて行くと何となくつじつまが合って来るのだが、伊那国や伊都国との関係も背景に有り、何かの都合で「イ」を消す事となったのでは?
  「イ」は「い」で有り、「伊」から「イ」を取ると尹で「尹一族」の徐福と関係が有るのか?

さて、話を本題に戻して行くと・・・

これ以外に吾妻鏡の中に北条 政子が伊豆山の秋戸郷(阿岐戸郷)にかくまわれていた一説が有るが、後の史実には出る事は無い不思議さが出てくる。走湯山の僧兵がかくまえば走湯山と平氏一門の争いにも成りかねないが、この様な争いも起きた事実が無い。

この考え方は仮説だが、秋戸郷(阿岐戸郷)は外来の者で相当の力を持った武力集団が治めていた可能性が強く、また秋戸郷(阿岐戸郷)は入りにくく出易い(海岸沿い又は海へ)地形ではなかったかと思われる。 (走湯山の宮社に出入りしていた白拍子が住んでいたと記されている)

しかし、大陥没によって集落としての機能と小さな港を失い、集落としての秋戸郷(阿岐戸郷)は消えたのでは?

ここ、元秋戸郷(阿岐戸郷)周辺は地質的に伊豆山の一部の海岸線に残る火山外周の名残りであり、特筆すべきは沖合いの初島の地質と同じと聞いている。

中世湊図

中世湊図
この図は中世期の湊(港)であり 商業港としてまた軍事港として有用 である。

この頃の伊東と熱海の港は海中には没してはいない?

当時の繁栄が伺えるのだが、熊野、新宮辺りの湊が無い?

現状
伊東湊(港)があった場所は現在で は潮吹き海岸と呼ばれ、観光地や地 元の遠足の地となっている。
現在、港は海中に没しているが使用 されていた当時は手石島へと突き出 た岩礁で守られた港と思われる。

伊豆山も沈んではいるが大きな港跡 は無く、築城石の搬出港の跡と石の 加工場跡がある。

水深20mの所に豆腐の様なかなり大 きな石が沈んでいる。

この石は当時100人持ち石と言って、 値段にして百数十両と言われている。

網代地区にもキッテ根と呼ばれる根 があり、石積と思われる。

今後の抱負と進行
 
現在は調査中であり、どの程度まで 調査出来るか分からない。

桟橋等は水深20〜25mの調査水深で あるが、護岸石垣の調査範囲は水深 43〜45mにも及ぶため、十分なる準備 が必要であり、且つ潜水技能の優秀又 は訓練を受けた者に限られてくる。

調べる事によって、海上交通史に一石 を投じてみたいですね。

 文責 國次 秀紀  國次の家系図  

Copyright(C)2002.10、PROTECS JAPAN by H.Kunitsugu All Right Reserved.