厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

伊豆山 ・熱海の海底遺跡と走湯山

阿多美と伊豆山の海底遺跡発表の為、地域伝承と歴史、そして物語を見つけ出す!
海底へと没した港湾都市支配者であった走湯山・伊豆山権現を調べ直す(*^_^*)

と、言っても熱海(阿多美)・伊豆山の港湾を語る時、全くと言って良い程に文献資料が一切無いのである。
海の中には色々な遺構や遺物が点在しているにも関わらず、全くと言って文物、伝承、口伝等も無いのだ。

これ程までに大規模な港湾都市施設が有るのにも関わらず、記録が何故無いかと考えた時、大変な人災(戦災)が起きている。

豊臣秀吉の小田原攻めがそれで、走湯山は小田原方の北条(後)氏に味方した為、全山丸焼けとなり、全てを失ってしまう。(この時、箱根権現も同じ様に全山丸焼)

当時の言い伝えでは山に火を放ち、更に騒いで僧兵を山側へと集めておいて後、海から上陸した豊臣側の兵が寺社伽藍へと火を放った為、三日三晩燃えていたという。また、重要な資料等は持ち出せ無かったという。

と言う事で、残った資料にて紐解いて行く!!

都度編集をして新しくする為に語彙変化や修正、増・造語が有ります。文面にご注意下さい<m(__)m>

古名を表示しました。現在名と古名とを比べてみて下さい。
更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。 是非共、一見して下さい。
 a.〜h.までに書かれているのは「走湯山縁起」を解釈する上で必要な陸上と海底の状況です。

a.岩戸山は古名 松岳と言い、天降りの地とされて天岩戸とも言う。頂上辺りでは松の木は小さいが、少し降りた麓(海抜600m以下で中振り、大木は400m以下)では松の木がうっそうと生えていたと想像出来る。

b.中の本宮(海抜385m)は神仏混交の折、東明山とも言い、東明寺が神宮寺として建てられた。

c.結明神は奥の院の平らな部分を結び平(海抜385m)と言い、こんもりと山を形成する。ここに有ると思われるが、奥の院への登り口(こごいの森)近くにも石の祠があって、ここにも祀られている。
その下側の山全体を権現山と言い、頂と頂の西側周辺を子恋(古々井)の森と言う。また、。結の峯とは権現山の上側から奥の院の辺りまでを指す。

d.権現山は楠木、椎木、槻木等の大木の山であり、古来「楠山」と号し、又、権現山とも言う。
 「走湯山縁起」には楠の木屑を新磯浜に捨てると有り、現在の稲村を指すのか、或いは伊豆山一帯、若しくは熱海を含めて再考し考慮したい。

e.二色浦は現在の錦ヶ浦を指すが、二色の岩屋とは岩蔵(岩穴・トンネル)であり、海底に沈んでいる。
根頭2m、根の最大深59mの双代根と言われる根には2ヶ所の階段、ジグザグに削られて作った小道や体内くぐり、せり出しの修行場等の修験に使われる為の場所が存在している。

f.小波戸崎は阿岐戸郷と現在の伊豆山港の間の岩板・岩塊の所を指し、小匂戸崎は現在のプール周辺の岩礁を指している。尚、走湯の湯の前を前浜と言う。

g.弁財天崎は現在の弁天岩。この周辺域を古来新磯浜と言う。水深18〜20mに海蝕(波打ち際)の跡有り。
海底に沈む巨岩は岩窟を多く含んでいる。現在ではイセエビの巣になっている。

h.伊豆山権現の勝地としたのは二色浦岩屋(磐屋・風蝕洞)は景勝地の錦ヶ浦、帷子の郷(片平郷)とは和田町と和田浜町、新磯浜(弁財天崎)は稲村の大岩である弁天岩であり、広域広範となるが、しかし、海岸線が海底に沈んでいる為に現在の海岸から沖合いを見ると、伊豆山では沖合い200mまでが沈んだと想像するしかないが、水深18〜20mの所に波打ち際の海蝕痕がくっきりと残っている。ただ、伊豆山では海底岩礁の最大水深が30m程度しか無く、どの程度沈んだかの比較の出来る深い岩礁が無い為、沈んだ範囲等は凡その判断しか出来ない。

熱海では沖合い1kmもの範囲で沈んでいる。また、熱海の二色浦は二回以上に渡って沈んでいると見られ、海没水深は最大55m以上にも及んでいる。(水深約25mの所に波打ち際の海蝕痕あり)
海岸部は鎌倉中期(1247年〜1253年頃)に陥没によって伊豆山地区は18〜20m、熱海地区は15m〜55m程 沈んでいる為、地形も沈む前とでは大違いに違う。小波戸崎、小匂戸崎、二色浦の磐屋及び、弁財天崎は共に修験修行の地となっていた。(國次 潜水にて現地確認)尚、現在のバス停留所(県境近く)である郷清水下の海岸線は古くは土肥ヶ浜とも言っていた。

江戸期の図を掲載してみました。面白い事に熱海は伊豆山に組み込まれて描かれています。
伊豆権現を中心に据えて配置されて居る事から、伊豆権現参拝の為の絵図と見られます。

この絵でも岩戸山(松岳)を中心に据えている。岩戸山を天岩戸と見て、中の本宮、その下側に新宮が描かれている。また、岩戸山を中心として海沿いに不動と言う濱と弁財天と言う祭祀地がある。中の本宮と岩戸山を線で結ぶとその先には富士山が有る。

 前書き

この項に入る為の前書きとしてお読み下さい。これは論考では無く、海底遺跡の発表をする為に歴史発掘をしている私観の入った個人的な報告ページです。新しい資料によって解読された部分から、追加及び訂正し、刷新致しますが私観・推測・愚説・異論的な報告書には変わり有りません。

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

ここで書き出される内容は海側から山を見て、また、海底に沈んでいる港湾と集落、磐座及び太陽と月を表す石積モニュメントを伴った神社から、山側を見て考察をしています。

当然として、海底に埋没した遺跡や遺構、湊跡、集落跡を見てからの判断と、海底にあるものを何も見ずに判断する場合では、その判断にも大きな違いが生まれてきます。

例えば、違う部分と言いますのは海底に没しています集落から日が峰を見ますと、太陽が真西側に多く入った日没の頃は黄金色に輝いて見えるのです。(夏至の頃)

更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。 是非共、一見して下さい。

尚、伊豆山及び熱海の歴史・伝承考証は伊豆山神社より戴いた資料『神道大系神社遍二十一 、三島・箱根・伊豆山』西牟田崇生氏校注(走湯山縁起・伊豆山神社略縁起・伊豆大権現御由緒書・別当般若院御由緒書・伊豆権現縁起大略・伊豆山記・走湯山古文書・伊豆山神社書上)他三部を、並びに「熱海物語」太田君男氏の編纂文章参考にし、考察しております。
現在に於いても末社の分布と祭神の関係を継続して探しております。故に、新しく祭神等が見つかった場合、下記に書かれている内容にも手を加えます為に、微妙な変化が生じます事を、まず、申し上げて置きます。

伊豆権現・神社 走湯権現・神社 全国末社・想定社150社 19年10月28日現在あります。

伊豆山神社と祭神関係はこちらへ(伊豆山神社正式サイトへリンク)

異説・愚説伊豆国奇譚 伊豆山神社縁起(「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」記載神名による)

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

ここ走湯山(はしりゆやま/そうとうさん)は古くから熱海と伊豆山一体を社領地及び宗教支配をしていました。

当然として、広範囲な「熱海の海底に眠る一大港湾都市遺跡群」及び「伊豆山の海底遺跡群」の海底に眠る3〜4ヶ所の湊遺構跡である場所は、元伊豆山・走湯山支配の地でもあり、この遺構の中には重要と思われる神社や祭祀場の址が残っている。

伊豆山地域の海底には湊跡が4ヶ所以上存在していますし、碇石も多数沈んでいます。
特に目を見張るのは阿岐戸(秋戸)郷沖にはその湊の痕跡がはっきりと残っています。

平安や鎌倉時代になると、社領も広大となり、遠くは四国までに及び、租税や年貢米を船によって運ぶ事と、伊豆山・ 阿多美より快晴時に見渡せる伊豆大島や利島・新島、房総半島西側周辺を含む相模湾内での船による通交税並びに近隣の漁に於ける漁獲の租税を取っていたと記録に残される。

古き事は、伝記や歴史の中に重大、かつ様々なヒントが含まれている為に深く追求する事として行くが、歴史的に中央との政治的背景なのか諸説が書き残されてはいるが、この事が逆に中心となる重要な部分を浮き彫りにしつつも、隠蔽しようとする意図も見え隠れする。

書き残した多くの書籍や資料を見つけ出し、海底の遺跡が浮き出てくる部分をすくい上げたいと思う。「走湯山縁起」「走湯山秘決」の 研究者の解釈をお借りした部分もあるが、調べるにつれ分かった事を徐々に書き足す形で内容を広く展開していきたい。

神仏の封印と明治の廃仏毀釈による混乱!

尚、調べる内に判った事だが、弘法大師空海によって大規模な祭神の封印がされている事が判明した。

これは、磐座(いわくら)山である松岳(岩戸山)の裾に神崛と言われる二箇所に神宝を埋納する方法であり、後に、一部は仏神門徒及び山主によって解明はされているが、これも真言派によって作られた話やも知れない。この点では、山主が天台派と真言派によって都度変わる事で「走湯山縁起」の訂正と加筆があった為と思われる。

また、明治の廃仏毀釈よって祭神がすり代わっている事に気が付き、昭和3年に火牟須比命→伊豆山神一座として改めて祀っているが、「走湯山縁起」に記載される祭神の名称は未だ充てられていなかった。海底の港湾都市遺跡と祭神出自との関係が密接に有るが為、今回、この伊豆山神社の祭神、つまり、「走湯山縁起」に記載される祭神を見直し、考察をする 事にした。

しかし、明治の廃仏毀釈によって伊豆山神社は火産霊神(火牟須比神)を祀っているが、当時の廃仏毀釈に関わった神祇官が悪意を持って祭神変更をしたとも思えず悩む所である。
ただし、「走湯山縁起」に書かれている祭神を表に出す事を明治政府内の上位神祇官が嫌ったとなれば、話は違って来るのである。が、それは当時の事であり想像の域を出ない。

この当時、官幣社と国弊社への移行が有り、官幣社は皇室(宮内省)から、国弊社は明治政府の国庫金から幣帛が供進されたという事も関係していると思われる。更に天皇家の菊花紋を使えた事も伊豆山神社が官幣社に拘ったと思われる節が有るのである。官幣社は神祇官が祀る神社、国幣社は地方官が祀る神社であり、祭祀する神官の地位・職掌にも多大な影響を与えるものである。

伊豆山神社は古来より神仏混淆の伊豆走湯山であり、独自の宗教支配や地方での権力を持つ寺社として、延喜式の制定の折には入っては居らず、式外社であり式内社では無かった。この事が、官幣社への格式に拘った結果、熱海・伊豆山により近い地域の中から、雷電社(雷電権現)と近似名それ相当の祭神を持つ式内社の中から選んだと思われる。火産霊神・火雷神・火夜芸速男神・火之迦倶槌神は火と雷の神であり、信徒達には雷電社の神と言ってしまえば、そうかと思う神名なのである。それが、式内火牟須比命神社なのである。

廃仏毀釈での神社運営と経営が関わっている事を言わんとして長々と述べて来たが、明治維新後には、これとは別に廃藩置県によってそれ迄の藩は解体され、武士達の藩禄(俸禄)も廃止された。つまり、今で言う解雇なのである。この廃藩置県を調べても神仏分離令においても 、伊豆走湯山は今まで年200石、加増100石、計300石(明治維新時の両→円換算価値は300円)の収入を失い、僧侶及び神官達も年棒や生活資金を失った事で神社経営の重圧が有ったものと思われ、村社・郷社として朽ちて行くかの苦渋の選択がここに有った事が伺われるが、周辺地域の村社や郷社を見る時、親しみ易い鎮守の神様として周辺住民の崇拝を受けているのが見られ、零細で有ろうとも神社経営が出来る形が有ったと思いたいが、社領高300石の所が実質は百三十八石しか無く寺社経営に苦労が有ったようだ。

また、伊豆走湯山は古来よりの伊豆を代表する神仏混淆の大寺社で有った為に地域鎮守の神社にも成り得ず、時が過ぎて行くとその霊験も忘れ去られていったと思われる。伊豆走湯山を篤く信奉する神官・氏子達と、県の認定神祇官の話し合い(一部強制があったやも)による見解で神社経営として官幣社の列格に並ぶ為、延喜式式内社の神名及び神社名をすり替え選択をしたが、苦渋と心労の上に引用したものと思われ、既に時代も過ぎて当時の事は知る由も無い。【明治維新時の貨幣価値は一両=一円=一石(米180kg)】

充てがわれた祭神の謎→阿多族の崇拝神? 阿多/阿田/吾田/阿陀の全国関連地名

しかし、苦渋の選択であったとしても火産霊神(火牟須比神)を充てたとして感心している。それは、阿多美(熱海)の海底遺跡を調べ、阿多の関係を調べる中、阿多族の隼人では火産霊神や月読尊を祭神として多く祀っている。愛宕神社の祭神は火産霊神であり、阿多の子として阿多子/安太子/阿多古と言う語彙が後の世の祭祀を色濃く残している。又、偶然なのは隼人が祭祀していた月読尊は「走湯山縁起」の中の祭神と共通性を持っている。
尚、古代に於いては伊豆・箱根・富士山を一つとした火山(神火)信仰圏とされ、一説にカンボジア系クイ族出身(鉄精錬部族)のかむろ姫と其の娘であるかぐや姫伝承、もう一説に竹取物語のかぐや姫伝説も伝わっている。この事を踏まえてか後年に於いて、研究者の手による解明を期待していた節も考えられるのである。

廃仏毀釈-------------------フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用-----------

一般に「廃仏毀釈」と言えば、日本において明治維新後に成立した新政府が1868年(明治元年)3月に発した太政官布告神仏分離令、1870年(明治3年)の大教宣布など神道国教・祭政一致の政策によって引き起こされた仏教施設の破壊などを指す。
これは決して仏教排斥を意図したものではなかったが、結果として廃仏毀釈運動とも呼ばれる民間の運動を惹き起こしてしまった。神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。祭神の決定、寺院の廃合、僧侶の神職への転向、仏像・仏具の取り壊し、仏事の禁止、民間への神道強制など急速な実施のために大混乱となった。1871年(明治4年)ごろ嵐が収まったが、長い間回復は困難であった。
例えば、千葉県の鋸山には五百羅漢像があるが、すべての仏像が破壊された。現在は、修復されているが、羅漢像には破壊された傷跡が残っている。
なお公爵や侯爵の華族の墓地も、仏教方式から神道方式へと強制的に変更させられた。
王政復古のもとに明治政府は、神政政治を目指し、神道を国家統合の機関にしようと意図した。 一部の国学者主導のもと仏法は外来の宗教であるとして、それまで大きな勢力を持つ仏教勢力の財産や地位を粛清し、弱体化するように誘導した。 江戸時代までは寺院法度によって禁止されていた僧侶の肉食妻帯を、明治政府は「肉食妻帯勝手なるべし」と号令し、戒律を犯させることで僧侶を破戒させようとした。また僧侶の下に置かれていた神官は政府の威をかりて、仏教の全てを否定し破壊する「廃仏毀釈」運動を起こし、混乱にまぎれて、寺院を破壊し、寺院の土地を摂取した。 また僧侶のなかには神官となるものや寺院の土地や宝物を売り逃げていくものもいた。国宝である興福寺の五重塔は、明治の廃仏毀釈の法難に遭い、わずか25円(2006年現在の価値で約20万円)で売りに出され、薪にされようとしていた。
江戸時代の廃仏毀釈
国学の普及による神仏習合への不純視や江戸時代の寺社奉行による寺請け制度での仏教寺院を通じた民衆管理への反発が背景にあり、政府主導による神道有位の風潮が影響した。
平田篤胤派の国学や水戸学が盛んであった地域ではとくに仏教排斥の動きが激しく、神道を国教化する運動へと結びついてゆき、国家神道の発端となった。 国家的な自慰行為との批判もある。
インド・中国などの廃仏毀釈
インドの有力仏教寺院ヴィクラマシラー寺へのイスラーム教徒の軍勢による攻撃や、中国での「三武一宗の法難」と呼ばれる北魏の太武帝・北周の武帝・唐の武宗・後周の世宗による仏教への弾圧などが、廃仏毀釈の事例として挙げられる。
------------------------------------フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用--------

熱海及び伊豆山の海底の遺跡群を解明する為には、是が非でも伊豆山神社の祭神を明確にしなければ、海底に有る遺跡・遺構の解明につながらない為、基調と成る「走湯山縁起」と「走湯山秘決」、「伊豆山略縁起」を調べる事とした。
残された「伊豆山神社」「走湯山」資料の中で不思議な記載を見つけ出した。これは祭祀されている神々に付いての事であり、廃仏毀釈の混乱で起きたものでは無く、神仏習合の始まった時から政治的・仏教支配圧力によって祭祀する神の改窮が有った様である。分かった所から記載する。

異説・愚説伊豆国奇譚 伊豆山神社縁起(「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」記載神名による)

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

しかし、「走湯山縁起」は偽書と言われている部分を払拭する為、全国の伊豆山神社末社で有る150社(随時調査中)を調べて行く内、二系統の祭神を祀っている事に気が付いた。それは、走湯神社系と伊豆神社系の二系統となり、伊豆神社系では 天孫神族・神阿多神族、走湯神社系では出雲神族を祀っている様に見えるが、祭神が解からないのも多々有り、決定打に掛ける。

複雑に入り組み日神と月神を結ぶ思わせぶりなのかも知れない。この事は、熱海の海底の神社跡の横に作られている石積モニュメントに埋め込まれている太陽と月を表現し、その表に対峙すると自らが北を向き、ちょうどそれは伊豆山神社の奥の院を指しているが、「走湯山秘決」での日精と月精を祀る結大明神を指している。更に奥の院からイワクラで有る岩戸山を直線で結ぶと富士山を指している。また、石積モニュメントの北東よりにはイワクラらしき石が有るが、それはちょうど宮崎県の東霧島神社の神石のイワクラに良く似ていて、大きさでは熱海の場合は3倍以上の大きさであるし、切り口は正確に南北を指している。ここで、拘ったのは祭祀と港湾都市の設計に関わる為で、方位と距離、遺構の寸法である。

更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。 是非共、一見して下さい。

◎注意として書き置かなければいけない事が有る。

大規模に海没した大湊と、小湊を持つあつうみヶ崎の集落跡、海岸沿いの修験磐座三座

ここに書かれてゆく事は、熱海(旧名 阿多美)沖合いの海底に1247年頃(鎌倉中期)に沈んだと思われる一大港湾の都市が存在しており、更に深き海底にはそれ以前にあったと思われる大灯台が沈みその湊跡は偉容さを誇っている。 故に、「走湯山縁起」1〜5巻と「走湯山縁起」の5〜6巻の「秘決」との古き解釈と、現在での新解釈に絶対なる食い違いが起きて来る。その理由として、現在、学者や研究者に於いての走湯山並びに伊豆山神社の解釈や論考に 、海底に眠るイワクラを持った神社も含めて語らなければ成らない。さらに、一般に熱海の名称発祥の由来とする「あつうみヶ崎」なる地の発見と火山の火口横に祀られた祠にも意味深いものが有り、「走湯山縁起」を偽書としている歴史学者や研究者の方達にも改めて見直して頂き、更なる研究をお願いしたい。
走湯山や伊豆山を神道・仏道で語る時、「走湯山縁起」に出て来る地名の広範の意義を熱海の海底に眠る土地も含めてもう一度考え直さなければいけない。「新磯濱」は伊豆山の海岸線上の通称弁天岩、「二色浦」は現在の錦ヶ浦一 体、或いは錦ヶ浦沖合いの岩礁を含む物、「片平郷」は現在の和田と和田浜町であるが、この三ヶ所を良く見た時、「新磯濱」 現弁天岩[古名弁財天崎](磐座)、「二色浦」現錦ヶ浦[古名二色浦磐屋](巨岩磐座)、古来の「片平郷」も沖合いに沈ずみ、やはり、ここ片平郷も磐屋(岩塊の磐座)である。伊豆山に鎮座したと言われる権現の選名勝地は伊豆山から熱海に及び、その広範な地域が海底深くに沈み、その当時の姿は海上には無く、往時の広々とした地形と、その大港湾都市を垣間見る事も、想像する事も出来無い。
片平の里は比良の里とも文献には見えており、本来は平たい地形では無かったと想像しうる。

「二色浦」現在の錦ヶ浦の沖合いにソーダイ根と言う海没岩礁があり、その海底の地形と海上の風蝕洞窟がこれに当たると思われる。海底には階段2ヶ所、岩盤に付けた道の跡、人為の石加工跡が水深56m迄に及び岩礁の頂上には切り込んだ加工石跡が残っており、修験の修行の場と想像出来る。また、伊豆山の弁天岩 [古名弁財天崎]の周辺海底は水深20m位であるが、海蝕の跡もくっきりと残っていて、大きな奇岩が多く、自然の岩窟が連なった形は修験の地としてもおかしくは無い。「伊豆山海底遺跡群 湊跡が3〜4ヶ所 と阿岐戸の湊囲みの石積が残っている」
「熱海の海底遺跡群(幅2km、沖合い1kmの広範囲)の二色浦祭祀遺跡遺構の一部と思われる」

「熱海の海底遺跡保存会」HP   あつうみヶ崎検証   熱海の海底遺跡案内   海底遺跡分布図

昨今、伊豆山、日金山、日の峯、走湯山の神仏が何かで有る事をより深く考察するに当たり、「走湯山縁起」を詳訳し、私達にも判り易く解いた澤井 英樹氏の神語り研究第三号 異域の神人と神龍 「走湯山縁起」の世界(1)及び5年後に発行された神語り研究第四号 行者・巫女・氏人「走湯山縁起」の世界(2)を良く噛み砕き述べなければいけない。

(神語り研究会)岩田書院1989年11月30日発行及び1994年11月30日発行のもの。
「走湯山略縁起」(浜田三郎氏保管、昭和63年9月解読写本・装丁者 程原直子・高橋きよ)及び『神道大系神社遍二十一 、三島・箱根・伊豆山』を参考として読み下してい る最中である。


阿多美(熱海)と伊豆山は阿多[あた・あだ]族と言う同意、同根・同族の支配地?

走湯山と熊野、そして全国の阿多/阿田/吾田/阿陀[あた・あだ]とのつながりが浮上しました。

熱海の語源となる阿田/阿陀は遠く九州は宮崎の日向の吾田及び鹿児島の阿田を含む南九州一体、そして福岡県福岡市東区筥松の阿多田での隼人、久米、穂積、安曇等の海人族で、特に隼人、久米は縄文時代 よりの土着の民でした。

特に代表とされる人物は阿田/阿多隼人族を代表する大山祇命とその娘である木花咲耶姫命、高天原より 高千穂へ天降った天孫の子の瓊々杵命(ににぎのみこと)、そして宮崎は日向吾田を経由し、薩摩半島は阿田/阿多の笠沙で見初めた木花咲耶姫(大山祇命の娘)とその間に生まれた子供達です。

 (記紀歴史考察より想定)

さて、大山祇命は近くでは三島大社で祀られて大変に意味深い神として祀られていますが、三島大社は元三島明神と言い、伊豆七島は三宅島に祀られていましたが、時代の流れにより現在の三島へ変遷されま した。ここ走湯山とは切っても切れない関係で航海と旅行の神と言っても過言では有りません。

余談ですが、この三島明神は最初に三宅島は阿古地区の富賀神社に鎮座し、次に走湯山の社領地である伊豆は白浜(白浜神社)に移遷され、その後、直接に現在の三島の地へ移したと言う説と、大仁(田京)に一時移遷して後に移したと言う説が有ります。さて、三島明神を移したから三島の地と成ったのでは無く、川と沼地も多く、駿河路、箱根路、伊豆路の三分岐路で有った事も三島明神の地として相応しかったと考慮する必要が有る のです。所で、三宅島に於いての走湯山の関わりでは、神着地区に走湯神社(権現)があったのですが、現在は御笏神社に合祀されています。

三島明神と三島大社って? (大胆な意見として書いて有ります)

三島明神の祭神は大山祇命であり、三島神社の祭神は八重事代主命(事代主尊)とされる。どう見ても同一神とは見えない為に、意図的に同一神とした様に見えるが何故だろうか? 少し考えて見よう。

三島明神(大山祇命)は当初、三宅島に鎮座して島嶼を通過する船の守護神として有ったと思われる。

又、三島神社[大神](八重事代主命)は元々伊豆國の下田白浜に賀茂の三島神として鎮座していたと思われるが、三島明神の変遷に伴い白浜神社・三島神社の地へ一時期的に置いた事で混同されたと思われる。

解かり易く言うと、賀茂(鴨)三島神社[鴨八重事代主命]と言った方が解かり易いだろう。

白浜神社[伊古奈比当ス神社](三島溝織(木へん)姫)と、三島神社は習合されて白浜神社となり、後に客神として三島明神が置かれたと思われる。

後に三島明神は箱根道、駿河道、伊豆道の守護として三岐三島へと移される。三島明神と三島神社を併せて三島大 明神とし、大山祇命 と八重事代主命を祀っている。

しかし、大山祇命は「山の神」や「海の神」として海人族の崇高を受けるが、八重事代主命は 恵比寿様、漁業の神として三島鴨神社でも祀られているので不思議でもないが、賀茂郡には昔から八重事代主命 信仰が根強い。ただ、同一神と見るのは違和感があるが長い間に習合・同一神化した様だ。

鴨君・賀茂朝臣の流れ
大国主命−都味歯八重事代主神−天日方奇日方命(阿田都久志尼命) (先代旧事本紀)

大山祇命の娘は木花咲耶姫で、古事記には神阿多都比売(かむあたつひめ)、日本書紀は神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)、豊吾田津姫(とよあたつひめ)と阿田が出て来る。
伊古奈比当ス神社と三島明神は夫婦神とされて白浜神社となり、別名久伊豆神社とも称される。(白浜伊豆三島大明神由緒書きを参考)
この久伊豆神社の埼玉県周辺に大変に多く存在するが、古来からの本社格玉敷神社久伊豆社となって折、ここには白浜神社や伊古奈比当ス神社と三島明神等は祀られて居らず、興味が有るのは伊豆神社(伊豆山神)を勧請社として、或いは富士山神として祀っている様に見えるのである。玉敷神社久伊豆社に手を合わせると祭殿の真裏の伊豆神社にも手を合わせた格好となるのである。また、久伊豆神社(社)の祭神は出雲より勧靖されたと言われており、ここから厳之神の勧靖として久伊豆の名称が名づけられたとしている。では、伊豆山の神に近いのでは?

久伊豆神社・久伊豆社は朝鮮渡来族(新羅、百済、高句麗)の鎮守の神では?

◎吉士族(吉志・喜志・企師・岸)の関係  異域の神のいわれは

伝承の作為か? 伊豆國伊豆御宮伊豆大権現の伊豆御宮とは伊豆國総社であり、伊豆神は厳神之宮と見えるが、厳神之宮とは出雲熊野大社を一般では指す名である。下記を参照して下さい。

いず、いつの語彙変化関連→伊豆、伊津、壱対(いつ)、厳、斎、伊津毛、伊豆毛、厳毛、出雲で浮かび上がる言葉と地域と祭神?

穴師坐兵主神社大己貴神の分身又は同神と言われる伊豆戈(ほこ)命
「左座 八千戈(矛)命 亦曰大国主命 神体広矛 兵主伊豆戈(矛)神是也」 『大国主命分身類社鈔』

大化の改新(乙巳の変)の前後.

伊豆國の旧國府(大化の改新前)は阿多美→ 新國府(大化の改新後)→ 田方郡三島へ

では、何で三宅島から現在の三島へ移ったかですが、それまでに有った足柄道が富士山の噴火で閉鎖さ れ、急遽箱根道が整備される事となった。そのために関所としての社(三島明神)を設置し、新たなる街造りと関所造りを 行ったと思われる。しかし、大化の改新に伴って伊豆國は駿河國に統合されてしまう。後に再び伊豆國が戻されるが、二郡に分かれてそれまでの伊豆の國府であった阿多美から 現在の三島へ移されてしまうが、朝廷の思惑によるものか大仁に伊豆國の國府である田京を中途半端に造っている。

894年(寛平4)紀長谷雄、伊豆國の國府長官赴任の話が残るが、殆ど阿多美に滞在。

この当時、国府は三島と思われるが、滞在記録が三島には残っていない! 本当なのか?

伊豆國の消滅と36年後の復帰 田方郡って、葛木・蘇我・賀茂系と中央政治のからみ?

伊豆國については大変に古く、応神天皇の時に伊豆國に10丈(三十メートル)の船を作らせ、神功皇后か ら更に後、伊豆國造が置かれた4世紀中期以前より有ったと考えられます。大化の改新の律令制国家形成によって伊豆國は実質的に解体し、律令制国家での租税徴収(特に稲の徴収)に符合させる為の準備として駿河國に吸収統合されてしまう。 尚、伊豆國は大半、特に東伊豆地区は稲作に不向きもあり、伊豆各地の郡里制度や班田収受法による収税調査が開始された。律令制租税収受が出来るとされるまでに30年以上の年月が掛かり、681年に駿河國から分離され、新生「伊豆國」となる。 一つだけ言えるのは大化の改新に於ける反体制の勢力と見る事が出来るが、いずれにしても中央の従属に対して反対し、従わなかったと思われる。

大化の改新での伊豆國の出来事については現在も調査中ですが、年表等を見て下さい。

田方郡の名称はどこから来たのか?

田方郡を田縣(たがた)や吾田(あがた)ではなかったろうかと疑問が残る。この田方郡は正式には 田縣郡で有るが、他の例を見ると上縣下縣等も見られる。田縣の場合、縣の田と見るべきでは 無いのだろうか? とすると、縣とは日向吾田隼人の諸縣の君牛諸を指すやも知れない。吾田は語彙が 変わる様で阿田や阿多とも書かれ、九州では宮崎の吾田鹿児島は薩摩半島の阿田福岡の阿多田(博多)の三ヶ所に地名を残すが、阿田吾田→阿田(大山祇命、木花開耶姫命)吾田(瓊瓊杵尊)→田縣→田方とすると納得しそうだ。「阿」や「あ」の文字を外しているが、意味ありげだ。田方郡は大山祇命、木花開耶姫命、瓊瓊杵尊が座す土地と見えるが、古来神の封印の地として古くから語り継がれている。封印の地は正に伊豆山と走湯山、その支配地と思われる。

ここで重要なのは大山祇命は紀元以来よりの縄文文化を伝えた弥生の豪族で有り、ただの海民族(海人族)では無く、海洋の交易でも栄えていた様です。つまり、造船、金属精錬と鍛治、石工、製材と木工事他の技術集団でもあり、海に於いては航海と船を使った漁業に長けていて、当然として潜水漁もその内の一つです。更に、南洋貝の加工と販売を手広くしていました。 忘れていけないのはこの時代に鰹漁をしており、海人族の中でも勇猛とされて、鰹の形を木に彫って、戦の陣飾りや大将船に鰹の彫木を飾っていました。この形式は神社の屋根の鰹木として今も残っています。

阿田の鵜飼、阿田の笠沙でも歴史で語られた阿田隼人、歴史上勇猛とされた熊襲も後には大隈隼人として同族とされますが、後に勇猛とされるが故に朝廷の軍事先兵(先鋒)や近衛として仕えた時代も有り、天皇に仕えた役職として隼人の司、鵜飼部は大膳職として身近な存在としています。

特に、鵜飼は阿多に取り込まれますが、元は中国の(そ、紀元前403〜221年)の時代に揚子江河口域で苗族が始めた鵜飼漁が始まりです。秦の始皇帝に楚の国が滅ぼされて日本へ難民として入って来たのです。  

鵜飼(晋〜楚の時代に揚子江河口での鵜飼が始まりとされている)

熱海はあたみ、阿田美で有り、阿多/阿田/吾田/阿陀[あた・あだ]はこの阿田隼人を中心とする海人族のグループ名との見方が出て来ました。(隼人には薩摩半島周辺の阿田隼人、宮崎は日向吾田隼人、大隈半島周辺の大隈隼人(熊襲含む)) それと、久目、阿積、穂積等の混成 海人部族を阿多族と呼んでいます。また、大きく定義すると、伊族(伊韓、壱岐)、津族(対馬)を含めたものかも知れません。福岡県福岡市東区筥松の阿多田の地名との関係は伊豆神社4座+1座にある事が判ってきました。福岡平野中心地であり、 最近の魏志倭人伝解明に於ける伊都國が糸島とすると、伊族(伊韓、壱岐)と五島列島、津族(対馬)を中心部族とする動きが有ったのかも知れません。又、阿多とは阿/吾(氏)族多/田(氏)族の混成も考えられます。

あた/あだと発音する地名は、 国外では中国は山東省、国内では沖縄、奄美、九州、山陰、山陽、紀伊半島、畿内、東海、伊豆、関東及び 東北までにまたがります。部族が分かれてからの地名では穂積氏・安積氏のあつた/熱田、渥美等がありますし、阿多美も元はあつうみヶ崎と言いますから穂積氏・安積氏も関わった阿多族の阿多美なのです。
何故、阿多/阿田/吾田/阿陀[あた・あだ]をこだわるかと言うと、阿多美(熱海)の語彙の阿田隼人族?の大山祇命と木花咲耶姫、そして磐長姫を伊豆神社・権現(天孫・神阿多系の神々として)で祭神として祀っており、そして、瓊々杵尊も祀っています。

阿田/阿多/阿陀の関係はかなり複雑です。

・大物主−櫛御方−飯肩巣見−建甕槌−意富多多泥古 −(古事記)
・スサノオ8世孫に阿田賀田須命(和邇君祖)、弟が飯賀田須命−(先代旧事記)
和仁古 (大国主6世孫阿太賀田須命の子孫)− (新撰姓氏録)
宗形朝臣(大神朝臣同祖、吾田片隅命の子孫)−(新撰姓氏録)
宗形君 (大国主6世孫吾田片隅命の子孫) − (新撰姓氏録)

鴨君・賀茂朝臣の流れ

大国主命−都味歯八重事代主神−天日方奇日方命(阿田都久志尼命) (先代旧事本紀)
宗形は福岡とすると、この阿田/阿多/阿太は福岡阿多田が一番近い! 全国のあた関係図

伊豆山と言う地名と久地良山/久志良山とは

伊豆山と言う地名はいずの言葉より厳毛、出雲、伊津毛、伊豆毛、湯出、の文字等を当てますが、走湯山略縁起では伊豆の「伊は夷(蝦夷)なり、豆は頭なり、故に東方の人、吾が神威を仰がば一天下の頭主たるべし」【縁起第5大意】この、えみし/い/えびす「夷」の文字を調べると蝦夷/戎/恵比寿/蛭子/胡/蛯子/蕃/貊/羌/狄/蛮/夷子と意味深い文字が気になる所だが、ここにも阿多/阿田/吾田/阿陀(あた)が直接・間接的に関わります。更に対馬には伊豆山と言う地名が有り、ここ伊豆山と同じ神聖な場所として、神降り・山たて(航海指針)の山として綿津見神/海神を淡水の泉に祀ってあり、船乗り達がいかに大海の中の淡水を大事にしていたかを物語っています。

対馬と壱岐の周辺域 伊豆山と言う地名は齋の山がもっとも相応しく各地の語彙も同意とする。それだけに伊豆山の地は古来よりの歴史を封印している。

走湯山略縁起の伊豆の「伊は夷(蝦夷)なり、豆は頭なり、故に東方の人、吾が神威を仰がば一天下の頭主たるべし」【縁起第5 大意】に於いて、伊は夷(蝦夷)なりの夷(蝦夷)は不思議な感じがするが、伊=夷=蝦夷とは、伊=壱岐の壱(一)=伊都の伊=対馬の伊豆山の伊=厳原(伊豆ヶ原)の伊である。東方の人に問う伊は夷であり蝦夷とし、同族の神聖で高貴なる神なるぞ!、又は吾が神威を仰がば一天下の頭主、国主、族長たるべしと言っている様である。

尚、神仏混淆であった走湯山/伊豆山権現は各地に寺院が開かれ、伊豆山宝福寺と言う名称・号(位爵)、扁額を冠している寺院が多く有るが、廃仏毀釈以前は伊豆山神社の祭神を祀っていた。 現在、伊豆山と冠していたお寺を調査中です。伊豆で有名なのが空海が開いた伊豆山修善寺で元は真言宗のお寺。

【伊豆山神社末社・想定社150社の内150社掲載】

久地良山/久志良山 →岩戸山/天岩戸/松岳の一帯

精奇城宮

対馬には、「天神多久頭魂神杜」と言われる土地全体を神社と呼ぶ地域があって、天孫族の多くの御魂を祭る神祉と云われており、鳥居礼著『神代の風儀(てぶり)』新泉社の中の「ホツマツタエ」天地開開の項 では、天照大神が多くの先祖の霊をここに祭って来たと云う「精(サゴ)奇城(クシロ)の宮」が何度も登場し、行ったり来たりの往環のスタイルを取っていますが、天照大神は 各地で祀り終わった最後にはこの宮に帰ってくると云う話なのです。この中の「精(サゴ)奇城(クシロ)の宮」のクシロが、くしろ→くしら/くちらへ転訛して、 久志良/久地良に変わったと思います。これは、地方に伝わる鯨/くじら/くしら/くちら伝承に繋がります。筑波山・足高(阿多加)近くの地名の鯨や全国の鯨山に由来します。 この環往のスタイルが「走湯山縁起」秘決の章の日精と月精の往還にも関係しているのかも知れません。

役の小角の故郷の葛城山の麓にも櫛羅(くしら/くじら)と言う地名が存在する。偶然だろうか?

更に詳しく走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。 是非共、一見して下さい。

族支配について

阿多/阿田/吾田/阿陀あ行=阿多族、阿祖/阿蘇を阿祖族、阿波/安房は阿波族 、阿部/安部で、こだわると壱岐はい行=一/壱族、伊韓、伊豆美/出見は伊族として見る事が出来、更につ行=対馬=対族又は津族となる。 そして伊族はイザナミ、イザナミ、伊勢(イセ)、伊豆(イズ)と語彙のつながり 、まんざら関係無い訳ではない。「走湯山縁起」には、ここ伊豆の地は伊(夷/蝦夷)の國で、伊豆権現は伊(夷/蝦夷)の頭主たりと。蝦夷→夷
古代に於いては阿積(安曇)、穂積(保積)、久米(久目)、隼人、球磨贈於を忘れてはいけないが、この他にもカンボジア系蝦夷(クイ)族、苗族、漢族系、朝鮮族系、インド系等の大・小部族は居たと思われる。

伊族平定と出て来るのは、801年延暦二十年、坂上田村麻呂の岩手蝦夷征討に於いて「遠く閉伊村を極めて」と報告に有りますが、この中の伊は夷であり、伊族は夷/蝦夷と言っています。 この時代の伊族は中央からはまつろわぬ者ですが、単に夷/蝦夷を伊に充てているかも知れない。

壱岐の阿多彌/阿多弥(あたみ)神社→対馬の伊豆山→熱海(阿多美)の伊豆山
壱岐+対馬→壱対(いつ)→厳→斎→伊豆の関係が気になる。
          壱岐は月読命や弓月の君との関連の深い地域で月氏国との繋がりもあると言う。

対馬では海神神社・和多都美神社として海の守護神 豊玉姫命を奉る、かっての対馬一の宮。
和多都美神社(名神大) 長崎県上県(縣)郡峯町木坂字伊豆山247(海神神社)

壹岐の島では阿多彌(あたみ)神社が二社(旧三社)鎮座、海人族との繋がりの強さを表しています。
阿多弥神社[アタミ]長崎県壱岐郡勝本町立石琴ノ坂字東触360(阿多彌神社)(大己貴神,少彦名神)

これまで説明しましたのは熱海と伊豆山の海底に大小の港と集落、施設等が存在していますが、その構築された遺構の技術力は目を見張る物なのです。時の権力者がこの地と港を取り込みたかったに違いが有りません。しかし、伊豆國に配置された経緯、或いは天皇家や大豪族との密接な繋がりが有った為、勝手は許されなかったのでしょう。

太平洋通行と交易、更に宗教上では熊野大社、鹿島大社、香取大社と伊豆山走湯山は切っても切れない関係で有ったと思われます。

例えば、熊野大社(当時は権現社)では熊野衆と言われる色々な職人集団を船によって全国各地、特に東北地方に運ぶ仕事を走湯山が担っていた可能性が有るのです。

上記に出て来た阿多/阿田の鵜飼部が全国の河川に配置されており 、河川と海を結ぶ通行権を一時期的にも阿多/阿田/阿陀の走湯山が持っていた可能性が有ると思われる為に尚更に調べなければいけない のです。

・・・・・(一部は歴史想定や全国の阿田/阿多配置による仮定)

下記の図は対馬と壱岐、その他の寺社をラインで繋げて見ました。当時とすれば目視によって直線が引かれたものと思いますが、どう見ても目視出来ないラインがあり、どの様にして直線状に配置出来たのかが疑問として残ります。

今の時代の様に、衛星を使ったGPSがあれば容易いに調べる事が出来ますが、今から1000年以上も前にどの様にして直線状に配置したのでしょう!?  ・・・、例えば、鏡に太陽の光を反射させて直線状の位置確認をしたのでしょうか?

直線の距離も100qを超えてしまえば目視も出来ません。では、星座の位置で解かったのか、天体での天測が出来たとは思えないのですが・・・!?   一般的に霊ラインとも云われる場合がある様です。

対馬と壱岐と伊豆

吉士族(吉志・喜志・企師・岸)の関係が浮上しました。

伊豆山の岸谷(きだに)の正式地名は「喜志(きし)」と書き、朝鮮渡来の新羅、百済、高句麗の貴族や王族関係者を含む帰化・定住集団です。

西暦の500年以前よりの歴史を持ち、独特の文化を持っていました。関東に於いては大磯、茅ヶ崎、平塚周辺、埼玉県は筑波や武蔵野周辺の地域に多く住んでいました。

高麗神社や高麗寺がこれに当たりますが、走湯山と密接に繋がっていました。阿多美の湊管理として和田の地があり、今宮(戎)神社が鎮座していた事も吉士族との密接な繋がりを 表し、阿多美の湊の規模が相当大きかった事が分かります。

更に、阿多美[あたみ・あだみ]湊、通称あた/あだみなとが海底に没して機能しなくなると、現在の網代地区へその拠点を移したと思われ、網代の元の名称は足代と書きあだ/あたと読みます。

その中の地名に和田木、鎮守神社名を和田木神社(明神)としています。(和田は和多都美の和多/和田から来ている) 
網代はいつしか古伝承を忘れ、足代(あた/あだ)から網代(あじろ)へと名称も変わってしまいます。

参考 墨水遺稿 碩鼠漫筆 吉川弘文館 明治三十八年七月五日発行

目次  現在、「走湯山縁起」及び「略縁起」の考察を行っており、祭神等違っている部分から書き直しをと思ったのですが、時期早々な様です。海底遺跡の発掘に必要な事だけを掲載致します。

1.伊豆山と走湯山(伝記関係)

2.日が峰と走湯山の関係 

3.伊豆枯野の大船(熱海の港と造船所?)

4.奈良〜鎌倉期の伊豆山と走湯山(年表)

5.室町〜江戸へ(走湯山の盛衰)(年表)

6.走湯山の格式と宗教の世界観

7.走湯山と箱根権現(伝承)

8.蜜厳院と般若院(皇族・氏族の系図より)

2003年1月19日現在、伊豆山の海底で「碇石」を7本確認し、種類として2種類のタイプを確認している。
特異な部分として、この内の2本は薄型で幅広という珍しいタイプである。   碇石とは(クリック)

伊豆山の旧跡観光用のマップです。(印刷保存用JPG版230Kbit)

伊豆山は慶長時代の前後に江戸築城石の搬出が活発だった。
しかし、それよりも先に走湯山を語らなければならないだろう。

この左の図は湯河原(土肥郷)より走湯山に向かって山中を越えるが、走湯山及び熱海(阿多美郷)が一望出来る場所を鎌倉の時代には礼拝峠と言った。
阿岐戸郷沖合いには小さな島並(岩礁帯)が見えるのが興味をそそる。

 

 伊豆山・走湯山の神々のお社

奥の院から岩戸山を望む 奥の院(中の本宮) 結だいらの結明神 白山神社
結明神社 足立権現社 雷電権現社 新宮拝殿

伊豆山の浜地区、走り湯の所に走湯神社(護湯童子/瓊々杵尊)もあり、この他に小祠は沢山あります。
足立権現社は役の小角を祀っており、あしだて権現としているが、本来はあだち/あたち(阿陀地)権現社と読める! 東京の足立区は古代より足立と言う地名で阿立地(あだち)、安達とは同意の言葉で京都と奈良の阿多/阿陀を離れた阿多/阿陀/阿田隼人、大隈隼人の者達が故郷を偲んで自分の名前や地名とした。
阿陀(阿多)は紀伊半島の熊野の新宮近く阿陀/阿多/阿田及び阿太和と呼ばれる地名にも関係が有ると思われるが、九州及び古出雲の阿多尾(砂鉄鉱山)や出雲郷と書いて阿多かえむらと読ませている事にも関係が?

伊豆山神社縁起と祭神関係はこちらへ(伊豆山神社 正式サイトへリンク)

神社の祭祀関係は別のページにてご覧下さい。祭祀での調査は海底遺跡の発掘ヒントとして見ていますが、例えば何処からどの様に来た部族か、どの様な支配構成かを考察しようとしています。

異説・愚説伊豆国奇譚 伊豆山神社縁起(「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」記載神名による)

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

1.伊豆山と走湯山(伝記・伝承関係)

その一(創作+伝承)
 西暦2006年、今から2千481年の昔、五代孝昭天皇の御代(紀元前475年)諸命と東国鎮撫の為に向か っていた船が途中伊豆半島の沖で嵐に遭い難破して、ただ一人「初木姫」は小島である初島に漂着した。

初島には先住民族が住んでいた形跡は有ったが、既に誰一人として住んでいなかった。しかし、幸いな事に飲み水があったのでこの初島に住む事とした。一人初島に住んでいると本土が恋しく、陸を眺めながら毎日を過ごしていました。或る日、対岸の陸地を眺めていると海岸に真白い煙を見つけたのを期にその対岸へ行く為の準備を始め、筏を作り、帆を作って出航しました。
やっとの事で、その白い煙の所へ行って見るとそこは伊豆山の小波戸崎(今の伊豆山港)でした。白い煙の元は海岸線に湯が走るが如くほとばしり、洞窟からも出ていた走湯の源泉です。ここより山の方へ行き、川の橋を渡ろうとした時に一人の若者に逢ったのです。彼の名前は「伊豆山彦命」といい伊豆山の氏人で、この時に渡った橋を後世の人達は逢初橋と名付けました。

さらに、初木姫は伊豆山の中腹に登り、木の中に住む日精と月精という子供を見つけて、乳母として育てたのです。その子供が成長したので、その二人を夫婦とし、やがてその子孫は大いな繁栄をもたらしました。昔の伊豆山権現の氏人の祖は、この二人の男女として伝えられています。「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」

その二(物語風伝承)                           
 その昔、十三代景行天皇三十一年(西暦130年)の事です。伊豆山の中腹に一本の杉の大木が有りまし た。その杉の幹の一ヶ所に白い雪の様な物が出来、だんだん大きくなって行きました。その部分は昼は太陽に、夜は月に照らされて、樟脳の様な香りを放ち始めました。その香りは、そこから二キロも離れたところでも香る様な強いものでした。(杉鉾別命神社発祥譚)

折りしも、この地を訪れていた初島の津木花香初木姫は、香りをたよりにその杉の大木に近づく と、その香りの中から一男一女が待構えていた様に突然として姿を現しました。津木花香初木姫はこの二人をわが子として引き取り大事に育てて後、二人を夫婦としました。伊豆山縁起(走湯山縁起)によると伊豆山権現の氏人の先祖はこの二人であったとされています。この二人を結神社(結明神)の祭神として祭った。 「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」一部加筆

その三(走湯山縁起伝承)
 人王第五代孝昭天皇(前475年〜前393年)四十二年、瓊瓊杵尊湯の泉の中より月の如き霊光を放ち顕れさせ玉い、津木 華香初木姫(沖の小島、初島明神)にしかじかとのたまわせ給ふと。この時、初木姫初めて湯の泉を見出し玉ふ。 伊豆は出るの義にして、湯の泉より出給ひて天下創生を憐れ玉ふが故に此国を湯出の州(くに)と稱し、此山を湯出の山といい、此御神を湯出の神と申し、又、伊豆の御宮と号(なず)け奉る。(湯出の訳は伊豆なり)伊豆の名義数多の傳(伝)あれど、皆我山の神徳より起これり。(走湯山縁起第六の巻に記して神秘とす)

十二代景行天皇三十一年(AD130)、久地良山(當山の異名)の上に杉の大木あり。其脂膏凝て雪の如く成しが日月の光に照されて龍脳の如く薫り、中より一男一女自ら出現す。初木姫是を子となして養ひしに日ならず成長して遂に夫婦となる。子孫甚多し、是乃ち権現氏の祖なり。国人、日精月精と仰ぎ、その栖居の地に斎いて結(むすぶ)の神と申奉る。(読みずらい為に「、。」を付け加える) (伊豆山略縁起 解読写本より)

上記二編の伊豆山伝記であるが、その一は明らかに時代を作っている様だ。
その二においても信憑性に欠けるが、神格化するのには十分かもしれない。
しかし、海底遺跡として目を見張ったのは小波戸崎、小匂戸崎と言う港周辺の地形と新磯浜である。上の図より、阿、岐、匂、戸、波、修羅などの文字が伺える。
小匂戸崎は匂当川(現伊豆山港から離れたプール近く)の河口と見られる。匂当川は伊豆山神社下側の東谷を通る小さな川。新磯浜は弁天岩(古名 弁財天崎)辺りを言う。

2.日が峰(日金山)と走湯山の関係(神仏の習合)

十五代応神天皇二年(AD271)の四月に、相模の唐浜、今の神奈川県大磯町に神鏡が現れ、伊豆山の新磯浜にさしわたし、一メートル位の丸い鏡が表裏ともにキラキラ光って波間にとび、遂に上陸してやがて西の峰に飛んで行きました。 その様子は日輪の様で、峰は火を吹き上げている様であったので、この峰を日がねの峰とよ び、やがて日が峰と呼ぶ様になった。

別の説明には応神天皇の時代に相模国の唐浜に一枚の円鏡が出現し、ある時は海中に、またある時は久地良山又は松岳に現れて奇瑞を示した。その神鏡を最初に奉祀したのが松葉仙人である。
ついで、仁徳天皇の代に神鏡が「吾は異域の神、日輪の精体であって、誓いによって温泉を出し、衆生を救うためにこの霊地に現れた」と託宣した。(相模の唐浜、今の神奈川県大磯町の説は高麗寺(現高来神社)/高麗神社との関係が有り、高麗寺伝承に残りますが、正式には「箱根権現縁起絵巻」として伝わります)

応神天皇の母親である神功皇后の時代に新羅の王族・貴族が始めて日本へ帰化したと言われる事に関係があるやも知れない。また、更に中国からの移民を大量に近畿一帯に配したともされ、後年では、百済、新羅、高句麗からの難民・移民を全国へ受け入れている。

そののち、木生(きしょう)仙人と金地(こんじ)仙人の両仙人がこの日が峰で神に仕え、神号を走湯山と称するようになった。

このあと文武天皇の時に、役の行者(小角)が温泉に浴して霊感を得、嵯峨天皇の代には弘法大 師 (空海)が 護摩行ならびに参詣したが、天降りたとされる山の麓に結界を張り、走湯権現の神宝や御神体を土中に埋納し、旧祭神の封印。新たなる天地と神仏を含めた世界を流布する。

仁明天皇の御代(836年)には甲斐国の賢安大徳が夢の中に権現の示現に接し、日が峰/久地良山より神霊を現在の新宮(伊豆山神社)に移し、社殿を造営して走湯権現東明寺を造る。

万葉集には伊豆の高嶺とあり、吾妻鏡には光の峰、走湯山縁起には久志良山と記されています。頂上より十間ほど下った所に日金山東光寺という地蔵堂があり、仁徳天皇の御代に松葉仙人によって開創されたとしています。この頃より日金山と呼ぶ様になった。

日金山は東北地方における恐山や立山寺、信州善光寺、越中立山、鳥取の摩尼寺、四国の弥谷寺などと同様に「死者のゆく山」として民俗信仰の対象であったが、地蔵信仰の霊山としての箱根山信仰とも関係している。

 「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」と一部削除、訂正加筆。

霊界道と天界道 不適切な言葉を使ってしまいました。訂正します。地獄道→霊界道
◎この日金山(日が峰)には黄泉の国に繋がる場所と後世には伝えられる。が、為に天岩戸(天界道)に通じる岩戸山(松岳/天岩戸)が相応しく、また、日が峰と岩戸山の間の峰を久志良山とも言った。仏教に於いても霊界道と天界道を分けている為、同じ所に神が天降るだろうか? その答えは「走湯山縁起」の秘決に正しく書いてあった。(伊豆の高根へ権現の天降り)で説明。

別の解釈をすると、日沈(沉)宮とすれば納得が行き、松岳(岩戸山)は神の宮。全体を久志良山。

日の峰(峯)や日金の峰、日金山と付けられたる由縁は

 「走湯山縁起巻第一」
 当山者、人王十六代応神天皇二年四月、東夷相模國唐浜磯部海漕、現一円鏡径三尺有餘、無有表裏、順濤浮沈、或夜放光明、疑日輪之出現、或時發響聲、誤琴瑟之音曲、視之為奇異之想、適欲近之波浪荒暴、隠没海底、又或飛登高峯係松朶、或入海中照曜波底、仍時人云二處日金、[二處者、入海登山故也、日金者、光如日音如金如也]、凡無識其事如何、・・・・・
 
 日金とは日輪の如く表裏無く輝く三尺有余の円鏡を述べており、更に其の円鏡は琴の様な奇声を発し、太陽の様に輝くと言う。またそれは二所に現れると言う。一所は高峰の松の枝に現れ、もう一所は海上に現れ、更に海中に潜り海底を照らし、又波浪荒くして暴れるとある。松に架かった所は松岳であり、明らかに日金山とは書かれていないが、正式な場所はこの項では述べていない。時として山に輝き、時として海面と海中に輝くと言う。いでし時は奇譚なる音を発すると言う。
別の章では伊豆山は新磯浜(にいはま)の海面と海中に現れたとするが、現在の場所は弁天岩と言い旧来は弁財天崎と言い弁才天を祀った磐座でもあった。
尚、海底遺跡の調査での気になる所は海面及び海中で輝く事であり、熱海湾海底の火山をさして居ると思われる。

色々な角度で見て行く中で、海底に沈んだあつうみの里、或いは初島から日の沈む様の日金山を見た時、一定の時期だけ黄金色に輝く事が判明した。下のリンクからお入りください。

走湯山・伊豆山の地形を考察して見ました。 是非共、一見して下さい。

伊豆の高根へ権現の天降り

もとは松岳に天降り、更に現在の奥の院に中の本宮に祀り、後に現在地の新宮にも迎え、中の本宮と新宮二社において祭った。ここに祝禱される神霊は、かって月氏国に有って蒼生済度の為に温泉を化出した「沙訶(カ)沙羅」と称する「湯神」で有って、松岳の麓、日の峰の麓に「霊湯沸湧」せしめたのは、専らその神験によるものであると記されています。

 (走湯山縁起、伊豆山略縁起)一部加筆

「沙詞(カ)沙羅」とは「インドラニ女神(インドラ神の妻)」インドラニ女神の信仰はネパールが根強く、ネパールの八大女神のひとつです。「8」という数字は日本の出雲の聖数でもあります。またネパール語で温泉はタトパニ(熱い湯)、ブータンのゾンカ語で温泉はメンチュ(薬水)というそうで、ブータンの場合は薬師以前の下半身が魚または蛇の土着の神の祠がある。

注:月氏国とは天竺(インド)の国漢文資料ではクシャーナ朝も大月氏と呼ばれますが、この王朝は仏教王朝で支配者の言葉はプラークリットの西北方言。(メコン仙人たより 江口 久雄氏調べ)

月氏国は中国まで攻め入ったが、戦況の状態が悪くインドへ戻った大月氏国と中国に残った小月氏国があったが、この小月氏国が朝鮮半島にも壱岐・対馬にも影響を与えた。

対馬と壱岐周辺域もう一つ、対馬の伊豆山中腹に鎮座する海神神社(わだつみ神社)は別名木坂八幡宮と言い、宇佐八幡宮よりも古いとされる。

この社には古来三国志の諸葛孔明の「八陣の法」の影響を受け、八旒の幡を奉納し、八幡神社発祥の地とされている。出雲の聖数「8」はここから来ているのかも知れない。伊豆山神社の神紋の九曜紋発祥のヒントにもなる。

伊豆山権現又は走湯権現は天忍穂耳尊であり、天照大神と素盞鳴尊二神誓約(うけい)によって生まれた最初の男神とされ、天照大神より葦原中つ国へ天降りを命じられましたが、自の次男を天降りさせています。日精(女神)、月精は 様々に名を変える瓊々杵尊雷電社(1 瓊々杵尊雷電社(2雷電童子/南山熊野王子は眷属として八大金剛童子を従えるとされる。白山社は菊理姫神 足立社は役の行者(小角)。しかし。日精と月精は走湯山において夫婦になったとしているので、ここでは結ぶ事での自然の 流れや安定を表すやもしれない。

伊豆山権現=走湯権現の神は同一かの問題として

伊豆権現系と走湯権現系の末社があり、共に祭神が違います。この事は何を表すのでしょうか? 天岩戸へ繋がる松岳(現在は岩戸山)、異界や死後の黄泉の国へ繋がる日の峰(日金)、日精と月精は月の上旬をもって神栄え遊べる「あこへの国」に行き、供え奉げ物千種おこたる事なかると。帰りは下旬になる事もあり。初木姫二人に問いただすと「あこへの国」に行くと言うので 初木姫に行くかと聞くと、初木姫は行きたいと申し出る。初めて行く時、月光童子/瓊々杵尊現れ、日精と月精及び初木姫をいざないて久志良山の巌窟の地下に入り行くと久しからず宮造の宮殿にたどり着く。・・・・・・ここの宮殿を出でて、地下の道を行く事はるかにして広きわたつみの濡れ端に出でたり。赤白の二龍の・・・と巨大な龍が住まわせる所(二色巌屋・磐座)なり。と、秘決の章には書き綴ってある。尚、日精と月精はこの時に宮殿の掃除もし、また、普段は本宮、中の本宮、新宮の掃除もしていると言う。これは、禊や祓いをしていると見なせる。
これは、天忍穂耳尊・幡千々姫・瓊々杵尊以外に更に強い神の存在を示しているものと見える。天上の日と月は地上に降りると日→火となり、月→水と成るから「湯」は火と水を合わせたる物であり、火を以って祓い、水を以って禊をする関係に有るやも知れない。また、権現は祟る事も有るとされる。

津木華香初木姫という巫女[初島比丘尼(はしまのびくに)]とは?

津木=津守=月であり、月の満ち欠けや潮の干満、太陽の日の出や日没等でのト占を行っていた者と思われ、初木は巫女祭祀の集団の長であったと思われる。特に、亀が出て来る事から壱岐・対馬 、また、朝鮮半島南部の部族に伝わる金亀伝承での海人族による「亀甲卜占」では無かったかと思われるふしがあるが、「走湯山縁起」秘決での内容を良く調べていたら、初島比丘尼と伊豆焉法師という清め勧進を行う集団がいた。 また、福岡の伊豆神社の一社が祇園祭を奉祭しているが、ここの祭神を調べると答えが出て来た。

彦火々出見命、玉依姫命、伊豆能売 神直日命、大禍津日命、大直日命、大綾津日神を見て何と思うだろうか・・・、大祓い、禊の神の勢揃いであり、ここから祇園社の清め勧進の犬神人の関係が出て来た。
大祓い、禊の神

「あこ」 → 阿子/阿古/吾子 → 阿多/阿田/吾田の子「あた・あだの子」?
また、話は戻るが「あこ」とは幼児の可愛らしさを現すと同時に、阿子/阿古/吾子と言う文字を含んでいて、日精と月精が阿多/阿田/吾田の子「あたの子」と言っている様にも取れる。実はこの語源の元は天竜川の上流域に阿多子/阿多古(語彙変化あり)と言う地名が現存しており、古来の阿多の鵜飼と河川関係者だが、木材の管理や鉱山師も配属していた様だ。「あこ」は可愛い以外に自分達の故郷をも考えさせる語彙で「あこへの国」とは遥か遠く九州 の故郷を指していたとする解釈もできる。 所で、万葉集にも阿胡/阿湖が出て来るのだ。一つは志摩の阿胡→英虞で、もう一つは山口県は阿武隈の阿湖である。後者の阿湖は海を隔てて我国、故郷に問い掛けている感じを現そうとしています。そこは亀甲卜占と甲骨卜占の故郷でも有る 壱岐と対馬であって、最近の歴史学によって高天原(天の国)は壱岐・対馬辺りとされます。とすれば、「あこへの国」は此処の事かも知れません。 関係は無いかも知れませんが、伊豆七島は三宅島にも阿古と云う地名あり。

祓い、禊、災いと祟りについて

さて、話を戻して祓い、禊、祟りと言えば、岩手県は早池峰山の伊豆神社に祀る瀬織津姫命が有名であり、因みに別名同神ではとされるのは伊都能売/八十禍津日神/大禍津日神/滝津姫命ともされるが、この中で宗像三女神の滝津姫命/多岐都比売命での関係は福岡県の伊豆神社二社で天忍穂耳尊と宗像二女神を祀っているが、外された宗像の一女神の名が判らない。

ただし、この宗像三女神は天照大御神と須佐之男命との誓約の際に生まれ出でた女神であり、伊豆山は岩戸山(松岳)の 西麗に祀っているが、この外された宗像の一女神だとすると、滝津姫命/多岐都比売命=瀬織津姫命と言う図式も浮かび上がる。伊豆権現と走湯権現が赤白二匹の龍神で男龍を天忍穂耳尊とし、女龍は幡千々姫尊と見たいが、神社の祭りの筋書きでは嫉妬する位でそれ程に激しく、また禊や祓い神の性格の女神では無い?しかし、 幡千々姫尊について調べて行くと、実はとんでもない偉い神様と分かって来た。何と幡千々姫尊は伊勢神宮の内宮の天照大神との相殿に祀られているではないか! とすると、瀬織津姫命/伊都能売/八十禍津日神/大禍津日神/滝津姫命の関係も浮上する。 しかし、神格に於いてどの様に仏教で見ていたかが問題であり、女龍は幡千々姫尊と見るやも知れず、更に調べる事としたが、これは、港湾都市を守っている守護神によって都市・港湾の造りに影響している可能性を調べる為である。

伊豆大神が女神とするならば・・・!
一品 遍照大権現(一品当きさき宮) 拷幡千々姫尊(万幡豊秋津師比売)で見てみると?
《【日本書紀】[本文]栲幡千千姫、[1]万幡豊秋津媛命、[2]万幡姫、[6]栲幡千千姫万幡姫命、[6]別説 火之戸幡姫の女の千千姫、[7.1]天万栲幡千幡姫/玉依姫命、[7.2]丹寫(うかんむりが無い)姫、[8]天万栲幡千幡姫、【古事記】萬幡豊秋津師比売命、【旧事本紀】萬幡豊秋津師姫栲幡千々姫命、
書紀第7の一書では、母親の世代が他説とは一代下っていて、天万栲幡千幡姫の女(むすめ)である玉依姫がニニギの母親であるとしてます。玉依姫、というと、ニニギの孫であるウガヤ、の叔母で、且つウガヤと結婚した女性と同名です。果たして、伝承の混乱なのか、単に同名異人か、隠れている真実が顔を覗かせているのか面白いところです。

中国の史書には卑弥呼が死去した後、男王が立ったが治まらず、台与が女王になってようやく治まったとある。この卑弥呼の後継者である台与(壱与)はアマテラスの息子アメノオシホミミの妃となったヨロヅハタトヨアキツシヒメ(万幡豊秋津師比売)に比定できるとする。つまり卑弥呼の死後男子の王(息子 ?・兄弟?)が即位したが治まらず、その妃が中継ぎとして即位したと考えられる。これは後の大和政権で女性が即位する時と同じ状況である。ちなみにヨロヅハタトヨアキツシヒメ伊勢神宮の内宮の三神の一人であり(もう一人はアマテラス)、単なる息子の妃では考えられない程の高位の神である。》
     参考引用:ニニギ考 [歴史館]・・日本古代史とアイヌ語・・大三元さんのページ (一部補字しました)
拷幡千々姫尊が伊勢神宮内宮の三神の一人とすると・・・? 何かを隠しているのか!?
伊勢内宮(皇大神宮):天照大神 ご神体:三種の神器の一つ、八咫鏡
相殿神:天手力男神万幡豊秋津姫命 (拷幡千々姫尊)
さて、万幡豊秋津師比売は別の説明によると大変な神であり、記紀編纂の折に消された神ともされており、天孫降臨の再の最大の功労者ともされているが何故かその女将軍としての功労と名前が消されてしまうのである。この説は古田史学会報45号西村氏の「天孫降臨の詳察」で詳しく述べており、宇佐八幡の比売大神と見るとされ、本来の香椎宮の女王で筑前の女王としての比売大神としている。 だが、比売大神とするならもう少し確証付けるものが欲しいのだが・・・!
伊豆大神とは誰ですよ、比売大神は伊豆大神ですよ! 万幡豊秋津師比売が本人ですと明かしている? 伊勢内宮の扱いも相応しい筈だし、更に軍神としての扱いが解かる。
同じ秋津には
『古事記』では速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)、『日本書紀』では速秋津日命
『倭姫命世紀』には、伊勢神宮に祓戸の大神の内の三神が祭られていると云う伝承が載る。
遠野の早池峰山の伊豆神社では、瀬織津姫命を祀っているが、現在に於いて唯一だが、福岡県の伊豆神社で瀬織津姫命/伊都能売/八十禍津日神/大禍津日神を御祭祀している所があった。これは、「走湯山縁起」の 内容の信憑性に拘るだけに何よりであった。尚、祇園祭りを行っている。とすると、祇園社には古来、清めを仕事としている犬神人と言う 集団があり、初島比丘尼や伊豆焉法師がその関わりを持ち、各地を廻り、清めの勧進等をしていた様だ。いよいよ、壱岐・対馬の亀甲 ・甲骨卜占の匂いがして来たが・・・。更に深く追求して見たい。

      伊豆神社 福岡県遠賀郡遠賀町大字島津  祇園祭りを奉祭
      祭神 彦火々出見命、玉依姫命、伊豆能売 神直日命、大禍津日命、大直日命 大綾津日神

赤白二匹の龍神と赤白の二流の旗での伝承で気になるのが神功皇后が三韓の戦いのときに、宗像の神が赤白の二流の旗を振って敵を翻弄し、これを後には沖ノ島に立て置いたとされる伝承が 「伊豆山略縁起」縁起第五大意の項に、神后皇后三韓を征し玉う時、神威を船中に示し、将卒の形を現じ給ひしかば、異国の兵これを見て、悉(ことごと)く恐怖すという、或時託宣し玉うには、伊は夷なり、豆は頭なり、故に東方の人、吾神威を仰がば、一天下の頭主たるべし。

つまり、赤白の二流の旗を二龍に見たとする壱岐・対馬に残る伝承と大意は同じである。
    「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」を参考とし、さらに(走湯山古文書再録下)より抜粋、一部加筆する。
「走湯山縁起」「伊豆山略縁起」での伊豆山・走湯山の祭神

天忍穂耳尊・幡千々姫尊・瓊々杵尊の三柱の大神と天津兒屋根命、天太玉命(太玉命ふとたまのみこと、太玉、高御産巣日神)の二人の神を補翼とし、八十萬の神を伴いて、此高根に天降るとす。
-------------参考---------------------

下記の図は古より作られた、文化と霊・信仰ライン 空海も知っていた!!

卜部氏(うらべし)は古代の祭祀貴族の一つで、卜占(ぼくせん)による吉凶判断を業としていた氏族である。

卜部氏は壱岐国・対馬国・伊豆国にあり、神祇官の宮主など下級職員として任じられ、亀の甲羅や鹿の甲骨による卜占を行っていた。天津兒屋根命12世の雷大臣(いかつおおおみ)を祖とする。平安時代前期、伊豆国の卜部氏出身である卜部平麻呂(神祇権大佑)(807年〜881年)を実質的な祖とする。子孫は後に吉田社系と平野社系などに分かれ代々神祇大副及び神祇少副を輪番で務めることとなる。その中で堂上家として残るのは吉田社系である。なお、『徒然草』の作者吉田兼好は吉田社系の人間である。そして吉田社の系統は南北朝時代の吉田兼煕が吉田を家名とすることになる。

壱岐、対馬、伊豆の卜占家は古代〜中世に於いて有名であるが、伊豆国での卜占家は何処に居たのであろうか? それは、伊豆国三宅島を中心とした島嶼に居たものと思われ、近年発見された祭祀銅鏡の数がそれを現しているが、特に島嶼中心の三宅島と伊豆に最も近い利島の発掘銅鏡が多い事が眼を見張る。尚、初島もその中の一つであり、初木姫の出身名での津木花香の津木(津守氏)の対馬と見る事が出来る。又、東国鎮撫の為に向か っていた船が途中伊豆半島の沖で嵐に遭い難破し、初島に流れ着いたとされる。行き先は鹿島辺りでは無かったかと思われるが、武蔵や下総鹿島にも卜占家が居たとされる。

壱岐国は 史料上の初見は、魏志倭人伝に一大国あるいは一支国としてある。

古くは壱岐のほか、伊伎伊吉伊岐由紀由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。                         

 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

3.伊豆枯野の大船 (熱海の港と造船所?)海底に沈む港跡の意味するものは!!

昔、第十五代応神天皇五年十月頃(AD274)、伊豆の国に命じて長さ十丈(約30m)の官船を作らせました。 ところが出来上がった船の、その船足の速い事軽い事、海を走る様であったので、枯野の船と名付けられました。その枯野の船の楠木の船材を伐り出した所は、今の日金山の麓奥野?の楠で有ったとも言われています。(枯野→軽野 軽野の奥野)検証中です。

この船の後日記として
枯野船は応神天皇三十一年(AD300)にはすっかり痛んでしまいました。
そこで天皇は朝臣にはかり、「二十有余年の間よく働いてくれたこの枯野船の功績を記念する良い 方法はないであろうか」と相談の結果、枯野船の船体をといて薪を作り、海水をたいて塩を作った所、 五百籠の塩が出来あがりました。そしてこの塩を「これは長い間、国の為に働いてくれた伊豆の国 より奉った枯野船より作った塩である」といって国中に分け与えられました。国中の長たちはそれをいただいて有り難く思い、枯野船に変わる船をというので、それぞれ1艘ずつの船を作って献上しました。その為に、朝廷には五世紀の始め頃に、五百艘の船が集まりました。

天皇はその船を武庫(今の兵庫県)の水門に集めて置きましたが、ある時、新羅(今の韓国)の貢船が 武庫の水門に入って泊まっている時、船火事を起して、これがこの船に延焼して五百の船は、ことごとく焼けてしまいました。新羅の王はこれを聞いて大いに驚き、何とも申し訳ない事であると言うので新たに新羅の優れた船大工をたくさん奉ったといいます。

この機会に、新羅の造船技術がはじめて日本に伝わることになり、伊豆の枯野船は日本の造船史に役立つことになったのでした。

応神天皇はこんな歌を残しています。

枯野を 塩に焼き それが余り 琴につくり かき弾くや 由来の門の となかの 岩礁にふれたつ なずの木の さやさや

また大伴家持は「伊豆手舟」を詠んで

防人の堀江漕ぎ出る 伊豆手船 槓取る門なく 恋は繁けむ 
木造の大船を造るとは(造船の為のスペースと船大工)

これ程までの大きな船を作る為には大変に大きな櫓(やぐら)を必要とし、仮に出来たとしても船の重さによって船を海に出せなくなる。船体のみを作り、軽い内に海へ出し、艤装関係は港か沖合いに泊めて行わなければ相当無理が有り、港か正式な造船所が必要となる。30m(係留を考えると45m程)を越す港の施設か、建造の為に十分なスロープが作れる海岸線が必要 で、また、楠は大船を造る為に敢えて神宿りの木として守られた 。楠の植林も全国的にしているが、権力者だけが許される楠木の伐採である。木の神を移す祭祀儀式も有る。(大船の部材として)
旧来、船大工等は一子相伝や一族相伝で有り、簡単には学び、船を作る事は出来ない。更に問題はその道具類である鋸や荒削り用の鐇(ちょうな)、そして鉄の船釘が必要となり、鉄 の精錬並びに鍛冶職人が要る事となる。又、船の形にも大別して二種類あり、新羅や中国沿海州辺りの隔室形船型とインド渡来系の崑崙船形竜骨船に分けられるが、当然として外洋船で有る崑崙船形竜骨船の方が速力に於いてかなり速い。

熱海の多賀地区では船にまつわる別の神話も残されています。
熱海市上多賀神社の伝承を紐解く

 大昔、相模湾の清らかな風土を慕って、波静かで松かげの美しい多賀の神台に、この上も無く、貴い父子の神様が天から降りてきました。

樟が洞から流れ出す中川の水を利用して堤を築き、大きな池にして宮殿を池の中の島に作り、40人の家臣と一緒に豪華な暮らしをしていました。

父神の名を高木の大神、子神の名を(ナギヒコ)と言いました。那木比古は年が若いのにとても賢く、ある日、父の大神は「あの白い雲のはるか先の方まで続きその中には七つの島があると言われ、お日様も一度には照らせないほど広い」と答えました。

那木比古はさらに「七つの島には神々や人々が住んでいますか」と聞き、父の大神は優しく答えて「そこには神々も人々も大勢住んでいるが、悪い神がいて多くの人達を苦しめ、悩ましている」といいました。

これを聞いて那木比古は、元気に満ちた声で「よし、私はお父上の強い家来をつれて、悪い神々たちを征伐にまいります。ぜひお許し下さい」と強く頼みました。

父の大神は頭を左右に振りながら「那木比古よ、それは勇ましい事だが、山伏峠から箱根や天城の嶮山を駈け回って、熊や猪を手易く討つ勇気は有っても黒潮逆巻く海の戦いには自信が無い。四十人の強い家来をつれていっても、七つの島を征伐するには七つの海を越えなければならない。

まだ海洋に乗り出した事の無い、我等の船では覚束無いのだ・・・」 那木比古は無念そうに大空を仰ぎ大海を見廻して「大きな船を作る匠が天から降ってこないかなー」と叫びました。

すると、不思議にも海の彼方から「モォー」という異様な叫び声を発して、見た事もない快速船が遥か大島と初島の間から、沖の白波をかきわけて見る見る近づきました。

それはとても大きな団平船で、帆に南風をはらんで速力は飛ぶが如く速く船首に房を付けた立派な船でした。

父子の神様は夢の様に見惚れていると、やがてその団平船は苫田(上多賀戸又)の港へ碇を下ろしました。

暫くして、船の中から汐風に吹かれて、黒く光った顔色の翁と、これまた色の白い美少女が珍しい土産物や献上品と家来を十人ばかりつれて上陸しました。

苫田の漁師はこの一行を海神様のお使いの方だと敬って、熊ヶ峠から青草を刈り取って磯部に布き、その回りにしめ飾りを張って仮座を設け女子の手でご馳走をしました。

その時のご馳走は小麦三升三合三勺であったといいます。 翁の名は、美少女の名は波姫といい、その夜は仮殿で盛大な祝宴が催され、翁は海の彼方の様子や七つの島の地形や水路の話を語り、波姫は美声で面白い歌や、手足に金の小鈴をつけた珍しい踊りで色を添えました。

折りしも、夏のこと仮殿の垂れ衣は高く掲げられ、灯明はゆらぎ、庭のかがり火は赤々と燃えて水に映り、波姫の姿は天女より美しく見えたのです。

宴半ばに、那木比古は樟が洞へ行って暗やみの中から谷川の飲みに来た大鹿を手捕にして来たので翁はその武勇を褒めたたえ波姫に命じて祝杯を差し上げました。

那木比古は祝杯の動きを鎮めていたが、何を思ったか、神庫へ行って赤塗りの矢を取り出して庫の前に突立ち、弓を引き絞って矢を放ちました。

あっと皆が驚く中を姫の持っている鼓をポンと鳴らして優しく膝の上に乗せたので波姫は微笑みながら矢を取って呪文を唱えると、たちまち一輪の美しい花に変わったのです。その夜は主客ともに親しく交わり楽しく過ごしました。

翌朝、父の大神は那木比古と団平船を見に行き、もの珍しい設備や航海技術に驚き新しい知識を得た事を悦びました。翁は大神の秘めた抱負と那木比古の決心を聞き大いに感服して、永くこの多賀の地に留まる事にしたのです。やがて数年が過ぎさり多くの船大工と船頭がそろいました。

高木の大神は四十人の家来に部署を定めて伊豆、相模、駿河に命令を下して軍艦を作らせて下田 港に集合し、第二船隊も房総から武蔵に命じて三崎港に集合し待機させました。

梅雨が明けて東風が吹き流れる初夏の晴れた日、若い総帥の那木比古は翁に代わって波姫を水先 案内に頼み大神の盛大な見送りを得て勇ましく全艦隊に出港を命じました。

どの船も太柱高く帆を巻き揚げ、順風に乗って遠州灘を真一文字に西走して乗り切り、熊野沖を通過して紀伊南端より紀伊水道を北上してついに七つの海を渡り継ぎ七つの島を征服して悪い神兵を平定して、人民達を救いました。

しかし、悲しいかな出雲の火の神との戦いで力と頼むいとしい波姫を失ってしまいました。

幾年月か経て、那木比古は淋しく凱旋しましたが、その時は父の大神も翁の白波之弥奈阿和之命も既にこの世から姿を消して神あがりをしていました。

那木比古は上多賀に日少宮(ヒノワカミヤ)をお建てになって余生を送り、ほど遠からぬ赤根崎に美しかった波姫の祠を作り美しくも優しかった姫の神霊を慰めたと伝えられています。
(年代を設定して読むと往時が偲ばれます)           「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」

熱海市上多賀神社の伝承を紐解く 黒いマレビト 52話53話54話55話56話57話 58話
メコン仙人たより 江口 久雄氏

4.奈良〜鎌倉期の伊豆山と走湯山とその周辺(クリックして下さい)pdfファイル
 歴史の年表等で比較して行きます。

◎噴火等の記録は有るが、地震等の記録が少ない。
5.室町〜江戸へ(走湯山の盛衰)(クリックして下さい)pdfファイル
 歴史の年表等で比較して行きます。

◎江戸城の築城に対して、各地より築城用の石を海上より搬出した。
 熱海・伊豆山でも大量な石を掘り出し、搬出した記録が残る。
伊豆山には搬出用の港が2〜3ヶ所も有った。
 大量の碇石の発見は交易か、または戦易船か、湯治の為の観光船の物か?
 この他に、走湯山が統治した土地からの年貢や租税の搬入船の碇か?
6.走湯山の神社格式と宗教の世界観
  まず最初に菩薩と神号の宣旨を受ける「東明山廣大圓満大菩薩/走湯権現」

権現号と大権現号
西暦654年白雉五年幼鼠生じ五穀を耗盡讒害(がうじんざんがい)す。即ち、緋田烏丸を勅史と
して當社に弓箭、甲冑、荘園等を寄せられ攘災の祈りを成し玉ひしかば、日あらず群鼠伏匿す。
その神徳賽(かえりもふし)て正一位勲二等の爵位・冠位を贈らる。尚、神号である「権現」号は当初は「権現」であり、元明天皇の和銅三年(710年)辺りより「大権現」の称号を使っている。この年、平城京の遷都の宣言をしている。
◎正一位勲二等の爵位・冠位の授与は大化改新前後となっている? (大化改新654年)

(走湯山略縁起巻第二より)

   正一位勲二等関東総鎮守 「東明山廣大圓満大菩薩/走湯権現」 となる。

東明山は兎も角、廣大圓満とは記・紀に語られる天忍穂耳尊に相応しい称号である。伊豆権現と走湯権現の荒御魂的部分は何処から出て来るのだろうか? 走湯山縁起の原初の部分にて現れ、高千穂の峰に天降った瓊々杵尊をこれに充てているとすれば充分に納得は行くと思っていた矢先に、新たなる疑問が湧いた。「東明山廣大圓満大菩薩/走湯権現」の垂迹は『千手千眼觀世音菩薩』と言っているのである。重要な名称(称号)を見て頂きたい。

「権現号と大権現号」

走湯山雷電大権現(光の宮) 式外社 正一位天満天神

伊豆権現走湯権現の二系統の祭祀と祭神の問題を考えた時、次の図式が成り立たないだろうか?

走湯大権現=出雲系の末社の祭神から天忍穂耳尊=千手千眼大菩薩=赤色 ・金色?

伊豆大権現=天孫・神阿多系? 異域の神=千手千眼大菩薩=大龍神=赤色・白色?

伊豆神社・権現系でも天忍穂耳尊を祀っており、図式の様には行かない様だ。また、色に拘ったが、この中で金色を生み出す為には黄色が必要で、それは月の色と見えるが・・・!

この図式での走湯大権現は男神では無く女神の拷幡千々姫尊 遍照大権現では!?

月の色は瓊々杵尊 走湯の子 雷電大権現(光の宮) 式外社 正一位天満天神

重要な名称(称号)
東明山廣大圓満大菩薩走湯大権現の廣大圓満大菩薩の引用は「十一面千手観音」、「千手千眼(せんげん)観音」「十一面千手千眼観音」から来ており、伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』の文字廣大圓滿を当てている。

伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』[がぼんだつまやく せんじゅせんげんかんぜおんぼさつこうだいえんまんむぎだいひしんだらにきょう]唐西天竺沙門の伽梵達摩

594年推古2年 二行の勅額「東明山廣大圓満大菩薩 走湯大権現」これによって菩薩号と神号の宣旨を添えて賜る。(伊豆山略縁起) 故に伊豆國神階帳の「正一位千眼大菩薩」とは伊豆山神社の事を言う。

遍照大権現遍照とは大日如来の音写では摩訶毘廬遮那如来(まかびるしゃなにょらい)と言い、毘廬遮那は偏り無く光り輝く太陽を意味しますので、遍照如来とも言う事から遍照大権現の名称を付与されています。

◎このこだわりは富士修験信仰と伊豆走湯山修験信仰の中に展開されて行きます。

異域の神のいわれは (箱根権現縁起では逆の設定で兄王子と姉御前となっている)

其の一、
走湯山と箱根権現(伝承)
斯羅奈国の大官源中将の娘妹の霊鷲御前ならびに波羅奈国 の兄弟王子の次男である次郎王子は伊豆御山で伊豆権現として現れました。インドから日本にやって来たコースはインド→高麗国→日本と なる。
これは、異神の権現の話と符合するが、では、この二人の扱いをどうしたかが問題であり、赤白の二匹の大龍であれば不思議では無い。龍神、地龍、川神、海神、滝神、火山神、火雷神を充てると、日→火、月→水であり、火と水が交わりて湯を化生すると言う。しかし、火が強く、水の勢いが強ければ色々な災いをもたらすとも・・・。 禊や祓い、祟り神の性格も持つ。しかし、「走湯山縁起」の秘決の部分では天忍穂耳尊と充てている。とすると、天忍穂耳尊 の多元性な火水を持った荒御魂となる。つまり、これは二面性を持った赤白の龍神を現すものと推察出来るのだが、天忍穂耳尊を荒御魂の異域の湯神として充てて良いのだろうか? それでは本当の祭神が判らなくなる。「走湯山縁起」の内、津木華香初木姫の巫女としての初島比丘尼の月の満ち欠けと、潮の干満による祭祀 と月暦関係では、亀甲卜占に於ける祭祀者が古来より壱岐、対馬、伊豆に配置されているが、元は壱岐・対馬出身者の巫女や神官で、鎌倉時代の住吉大社の神主は対馬出身の津守長盛(津守=対馬)であり、「走湯山縁起」の権現の旧知の関係で住吉・宇佐とも繋がっている。

 (箱根権現縁起、走湯山縁起、走湯山古文書再録上より考察)

其の二、
和漢三才図会、抜粋ほか!
伊豆権現、箱根山の南、300石、神主三宝院、別院般若院

祭神、瓊瓊杵尊「白鳳9年に社ができたというが未詳。或いは百済王後裔の王辰爾を祭るともいう」
百済王後裔の王辰爾を祭るとは、祭殿の神像が渡来系で身の丈2m程の容姿をしている為だ。

[続日本紀]を考え合わせるに、応神は使を百済に遣わし。百済国主の貴須王は一族のなかから採択して、孫の辰孫王[一名智宗王]を使と一緒に入朝させた。時の天王は喜び、皇太子の学問の師とした。かくて初めて書籍伝わり、仏教や儒学の風が開かれる。辰孫王の子、太阿即王。その子の亥陽君。その子の午定(ごてい)君は3人の男を生む。三男味沙(みさ)、辰爾(しんに)、麻呂(まろ)という「これより分かれて三姓となる、白猪(しらい)・[葛井(ふじい)]、船(ふな)津(菅野)の三氏となった。敏達5年の時、高麗国から使がきて鳥羽の表をたまわり、だれも読めなかったが王辰爾は飯気で蒸し、帛(きぬ)をもって羽に印し、その文字を判読し読みとった。

更に、王辰爾は蘇我稲目のもとで船賦(ふねのみつき)を数録し、船史姓を賜ったともある。その甥の胆津(いつ)は、稲目・馬子のもとで、吉備国白猪屯倉(しらいのみやけ)経営にあたり、田部の丁籍を記録した効により白猪史の白猪(しらい)姓を賜わり、その弟の牛(うし)は関税を司ったので、津史を賜ったという。

働きの中で大化改新のとき、焼失する蘇我蝦夷の邸から、国記(こっき)を持ちだしたのも船氏[王辰爾](百済王)系であった。彼らは東漢(やまとのあや)配下の今来漢人(いまきのあやひと)は文筆に優れ、とくに朝廷の財政収支の計算・記録を専業としていた。

東漢(やまとのあや)配下の今来漢人が、朝廷では織物・武器の生産などの手工業を専業にしたのとおなじで、ともに先進的な技術を示した事で、この今来の葛井(ふじい)・船・津の三氏は、やがて本系三氏[西文氏・西漢(かわちのあや)の本系は、西文・武生(たけふ)・蔵(くら)で、馬氏・蔵氏等の名あり]より優位にたっていた。

熱海の大湊開発に船氏(王辰爾)や津氏等の今来漢人が関わっていたと見る事も出来そうで、伊豆山は岸谷、正式名称は喜志と言って各地の湊管理者及び管理地の吉士(吉志・岸)に通ずる。

576年(敏達5)高麗国霊光王烏羽の表文を受けるが、文字読めず。宣旨を受けて走湯権現に祈り、烏羽の文字を読む。【走湯山略縁起】

摩多羅神の祭祀、正月五日にあり。その作法稀代にして、別当を始め鉦鼓の拍子を打て。一の秘仏を押戴き、神秘の和歌を唱咏し、扇をとりて舞踏する事、故質ありて、外人に見する事を許さず。

この考え方は走湯山縁起及び略縁起、伊豆山古文書(再録上下)、伊豆山記、伊豆権現縁起大略、伊豆山略縁起等を紐解いて見た國次 秀紀一人の解釈であり、資料が見つかり次第、加筆及び訂正等をするものとする。2006.5.24記


走湯は「はしりゆ」と古来は言っていたがこの語源は「鉄(金)が熔けた様」を現すがお湯のほとばしりにも似ていたのであろう。末社に於いて走湯権現、走湯神社として祀られるが、「はしりゆ」の字が訛って八竜神社としても祀られている が、伊豆神社、伊豆権現では無く、あくまでも走湯神社・権現として祀っている。二系統神社を本宮山として伊豆山神社で仲良くむすび祀られている。斎の山として の伊豆国伊豆山、長崎は対馬の伊豆山、秋田県大仙市花舘の伊豆山が有る。熱海は古来名阿多美/阿田美と称して全国のあた/あだの地との繋がりを持っている。

◎下記資料の「出展先と根拠」を明確にする作業を始めており、暫くの間、再配布をお断り致します。

a.全国のあた分布図 b.伊豆山神社末社分布図 c.九曜紋と月星紋を使った氏族・寺社
d.全国のあた住所地pdf   e.伊豆山神社末社所在地   f.九曜紋と月星紋とはpdf
             伊豆山神社末社調査には鈴木佐(たすく)氏のご協力を頂きました。

7.走湯山と箱根権現(伝承)

箱根権現縁起絵巻の(高麗権現・箱根権現・伊豆山権現)中の伊豆山

印度の斯羅奈国の大官源中将に二人の女の子がありました。姉は常在御前とよび、妹は霊鷲御前とよび妹は中将の後妻の子でありました。ところが姉と妹の仲は良かったのですが後妻の継母は、姉の方を大変いじめ、中将の不在の時に虐待し、ついにほら穴に落としてしまいました。この時波羅奈国の王子兄弟が偶然来あわせてこの姉妹を救い本国に連れて帰りました。 中将は帰国してみると、姉妹がいないので驚きその行方をたずねました。継母は知らないと言って姉妹の行方を教えませんでした。中将は行方を尋ねて巡歴の旅に出て、遂に波羅奈国で姉妹にめぐり合い、姉妹を連れて帰国すると、継母は嫉妬のため、蛇身となって二人を追い回すので、中将は姉妹と王子兄弟を連れて日本国に渡来し、相模国大磯の浜に上陸し、ついで中将との娘、姉の常在御前ならびに太郎王子三人は、箱根の駒形嶽で箱根三所権現となってあらわれ、妹の霊鷲御前と次郎王子は伊豆御山で伊豆権現として現れました。『神道集』は南北朝の頃に集められた中世諸社の縁起集で、僧の安居院の作とされています。その中に「第七、二所権現の事」の一条があり、二所とはすなわち箱根権現と伊豆山権現の事であり、この二所が述べられています。

下山ハ伊豆権現ト申ス亦法躰千手ナリ此亦大慈大悲ノ御誓願深シ三途八難ノ類ヨ利益給フ俗躰ハ无量寿仏是ナリ因位ノ昔ハ波羅奈国ノ次郎王子是ナリ女躰ハ如意輪観音是ナリ雷電八大金剛童子権現守護兵士ナリ本地亦如意輪観音女躰ト申ハ因位ノ昔ハ常在御前ノ御妹霊鷲御前是ナリ拳ノ童子ト申モ権現守護ノ王子ナリ本地大聖不動明王是ナリ岩童子ト申モ亦権現所持ノ王子ナリ地蔵菩薩ナリ本地阿弥陀菩薩是ナリ塔本桜童子ト申モ権現所持ノ王子ナリ本地亦地蔵菩薩ナリ白専馬福専馬ト申モ当山鎮護の王子ナリ御本地ハ普賢文殊両躰ノ菩薩是ナリ洋サノ八人女メ床ノ八人女ト申スワ婆竭羅龍王ノ御娘ゾ此亦当山擁護ノ福神ナリ御本地ハ胎金両部ノ大日ナリ中堂権現ト申シ給モ亦霊鷲御前是ナリ如此王子達ワ源中将ノ北ノ方ノ障碍神ト成給フヲ払ン為ノ神達ナリ干時人王五十四代仁明天皇御宇承和三年丙辰年春甲斐国ヨリ八代懸ノ上人云2賢安大徳1人此御山ニ至リ清浄覚悟ノ御湯ヲ行ヒ出シ給ヘリ自2其年1以来此御山ヲ顕シ御在テ万民利ヲ益シ事于今年久
伊豆権現→千手観音 俗躰→无量寿仏 波羅奈国ノ次郎王子
伊豆権現の女躰とは→如意輪観音 常在御前ノ御妹霊鷲御前
洋サノ八乙女メ床ノ八乙女→婆竭羅龍王ノ御娘 
御本地ハ胎金両部ノ大日如来→中堂権現→霊鷲御前

「太田君男氏編纂の熱海物語より抜粋」ただし、箱根権現縁起では姉妹及び兄弟が逆の設定。

8.蜜厳院と般若院
未だ出来ておりません。暫くお待ち下さい。
 取り敢えず、走湯山関係における関係した氏・皇族系図をご覧ください。いかに重要だったかが分かります。

◎下記資料の「出展先と根拠」を明確にする作業を始めており、暫くの間、再配布をお断り致します。

   a.別当職と僧籍関係    b.千葉一族の:系図    c.伊東一族 の系図  d.皇・氏族の系図

この資料は「熱海の海底遺跡保存会」主催の定例講演会は現在お休みしています。
内容の刷新等が有りましたら差し替えを致しますので時々確認をお願い致します。


まとめ
熱海と伊豆山の海底遺跡の偉大さは「走湯山縁起」や「伊豆山略縁起」を調べる事によっても随分と判って来た。しかし、政治的な配慮と神仏 混淆で有った為に宗派による書き直しや削除の影響が有る事も判った。特に「走湯山縁起」の秘決での内容は大変に重要な事を書き残してある。神仏や龍及び亀の記述によって、伊豆権現の出自までもが判って来る内容である。古代からの阿多族、阿祖族、阿波族、伊族、津族等の部族の遍歴の一部が垣間見えてくる。まるで、「走湯山縁起」の内容が真実であると。ただし、この土地の権力者がどれほどの織者かを言わんばかりに海底深くその火山祭祀(火山の火口あり)、方位星神(正確な方位版と磐座)と日神・月神祭祀(太陽と月をあしらった石積モニュメント)を含んだ港湾都市は眠っている。

厳重注意 ここに書かれているものは正式な調査によって発表されたものでは有りません。個人として、國次 秀紀独自の調査推理の上に書かれた物です。故に参考にする方はご注意をお願い致します。

伊豆国奇譚 國次 秀紀

あなたは番目の訪問者です!(4.30.2007)取り付け)